97歳まで一人暮らしをしていた祖母。心臓が弱くなり入院、息を引き取り納骨まで2週間。あっという間に9月が過ぎ去ってしまった。
この間、不思議な力に動かされているようだった。
私がちょうど東京にいる間に祖母の具合が悪くなり、救急車で運ばれるのを付き合うことができた。翌日には回復の見込みがないことを知らされ、苦しさを取り除くための処置が施されて、家族の見舞いが許された。その日のうちに、外出がしづらくなっている母を車で連れて行き、頭がはっきりしている祖母といつものような会話ができた。目を開き、会話ができたのはこの日だけだったらしい。でも、近い家族はみんな、病院にいる祖母を見舞うことができた。
週末に松本で予定されていた私の地域の小さなコンサートも、波田教会での義母のリードオルガンの練習も無事終え、東京に帰った数時間後に祖母は息を引き取った。
大事な家族みんなを待っていてくれた。
見送りは家族のみ、自宅で行った。
祖母はクリスチャンではなかったが、遺言ノートに残された指示では、讃美歌「いつくしみ深き」「はるかにあおぎ見る」を私にチェロで弾いてほしい、というのが希望だった。祖母が10代前半に経験したクリスチャンの家族の葬儀で、初めて歌った讃美歌が「いつくしみ深き」だった。一回きり歌った古い歌詞を晩年も鮮明に覚えていた。もう一曲はどうやって思い出したのか、もう聞くこともできない。
仏壇と線香のある形だけ仏式のお別れの中で、家族みんなで讃美歌を歌った。
キリスト教には縁がないと思っていた叔母たちが、高校生以来だと懐かしがった。聞くと、ミッション系の学校で聖歌隊に入っていたという。私の両親も、幼い頃に教会学校に通っていた記憶がよみがえった(私は初めて知る事実)。最近、私の母は具合が良くなく、椅子から立ち上がるにも助けがいるのだが、歌った後に一人ですっと立ち上がったのには驚いた。歌うことは身体にいい。
讃美歌が隠されていた昔の思い出を呼び起こす不思議。
納骨の日は台風一過の晴天。これも不思議。
晩年の祖母は膝の痛みがひどく一人で外に出られない日々だったが、家の中はいつでも綺麗に整頓され、デイサービスにも出かけず、週1回の訪問医とヘルパーの助けで、彼女らしい生き方を全うした。自分の葬儀の仕方やお墓のこと、死後の事務処理までも詳細を子ども達に言い残していた。社会的には地位もないただの主婦だった祖母が、最期まで愛情を持って大切にした丁寧な生活。
第2次大戦末期、鹿児島空襲で焼け出され、戦後の貧困を経験し、戦争はこりごりだと言い続けていた祖母の願う平和を、この地味なお別れで深く感じた。
一息ついて戻った野尻は、すっかり秋の空気、黒姫も妙高も色が変わりつつある。
これから母の病と付き合う道はどんなだろうか・・・これも一人の人生。