2015年05月31日

J.S.バッハと20世紀の3人の作曲家

20150628duo&trio_0001.jpg
空気が清々しい季節はあっという間に通り過ぎ、連日強い日差しの日が続きます。湿度の高い季節を迎えようとしていますが、皆さま如何お過ごしでしょうか。
このところ地震や火山活動があちこちで起こっており、地球上どこもそれぞれの特色のある地形と自然環境を持っているものの、改めて日本は厳しい自然の力と微妙なバランスを取りながら成り立っている島なのだなぁ、と思います。毎日、新聞を開いては次々に問題が襲いかかってきて、気持ちがざわざわします。
どんなときも、ユーモアがなくては生きていけませんね。
真面目に考えれば考えるほど。

6月28日にヴァイオリン、チェロ、コントラバスの3人で「デュオ、トリオの愉しみ」演奏会を開きます。
三年前に続いて二回目となります。前回のときより、更に多忙に関西で活躍されているヴァイオリンの田村安祐美さんと、いつもニコニコ笑顔のお人柄と楽しいお話で人気のコントラバスの安保龍也氏。
コントラバスの安保氏のたっての願い(︎?!)、ヨハン・セバスチャン・バッハは必ず入れたい、ということで、前回に引き続きバッハと20世紀の音楽を組み合わせました。

ヴァイオリンとコントラバスで演奏するバッハは、原曲はフルートとチェンバロやチェロの通奏低音によるソナタで、ホ短調は深く美しい緩徐楽章が特に印象的な作品です。フルートパートをヴァイオリンとコントラバス交互に入れ替えて弾く予定です。

4月、カナダから帰国した直後に、チェンバロ奏者で義叔母の有賀のゆりさんが亡くなりました。
三年前に彼女と行った京都でのバッハのヴィオラ・ダ・ガンバソナタ全曲演奏会は、音楽や人々への愛と感謝と喜びに満ちた貴重な体験でした。その時を思い出し、ガンバソナタが弾きたくなり、今回急遽取り上げたのが、ガンバソナタの第1番のトリオソナタ版のト長調です。この曲はまだまだ自分のものにならないから何年もあとに弾こうと思っていました。言論や行動や信仰の自由が無かった戦争の時代を経験した、大きな山のような存在が次々にこの世を去る昨今、真実を知った芯のぶれない思考とユーモアに守られていたのだ、と気づかされ、逃げずに気持ち新たに弾いていこうと思いました。

さて、20世紀初めは、ヨーロッパ各地で様々な作曲家がそれぞれの様式や特徴を持った音楽を展開していました。例えば1910年頃を切り取って見てみると、ウィーンでは無調の音楽をやっており、隣のハンガリーでは民謡採取に飛び回っている、パリではストラヴィンスキーの『火の鳥』が初演されており、一方でドビュッシーやラヴェル(ボレロはまだ書いていない!)、フォーレが独自の和声の世界を繰り広げているし、ドイツではリヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』を、ロシアにはまだプロコフィエフがいる…。それから10年のうちに、第一次大戦が起きロシアは社会主義体制になり、世紀末の反動と混沌の時代が大波となって、音楽、文学、美術などの才能豊かな芸術家が共同作業をし、お互いに刺激を与え合い、珠玉の作品が次々に生まれるのです。
同時に、政治体制に翻弄される時代がやってきます。
音楽家は政治と無関係ではありえません。
それでも、どの時代でも同じように、一人一人の人生はそれぞれです。

ハンガリーのバルトーク(1881-1945)にとって音楽の勉強は、ブラームスなどドイツの伝統的なものが出発点でした。19世紀末の混沌としたなかで、ハンガリーでも国独自のものを生み出さなくてはいけない、という政治的な風潮が音楽家にも影響を与えます。自分のスタイルを作り上げる上でなくてはならない原動力としてハンガリー民謡(農民の音楽)を捉えたバルトークは、思いを同じくするコダーイと一緒に、農村に出掛け、膨大な数の民謡を集め、研究しました。ハンガリーだけでなくルーマニア、スロヴァキア、更にはトルコやアラブまで。
バルトークの作品は、ピアノを始めたばかりの小さな子どものための曲から、弦楽四重奏やオーケストラなどの名曲と呼ばれる難曲全てにおいて、民謡のエッセンスが流れています。
不屈の精神は彼の行動や文章にも表れています。ファシズムがヨーロッパ中を覆い、次第に自由が奪われていくとき、仲間を擁護し、政治的な理由で辞めさせられようとする同僚のために闘い、だんだん彼自身も立場が危なくなっていくのです。自分の仕事を続けるためにも、1939年に母を亡くしたあと、とうとう40年にアメリカへ亡命します。
1939年の手紙のなかで、ヨーロッパを去る決意をするべきか迷いを書いています。「…去り得る状況にあるのに、それでもここにとどまっているなら、その人はここで起こっている全てのことについて無言のうちに同意していると見なされても仕方ないでしょう。…他方、祖国がどんな泥沼に陥ったとしても、そこにとどまり、できる限りの努力をするのが国民の義務だ、という見方もあります。問題は、この先そんな努力が、果たしていくらかでも実りをもたらすかどうか、ということです。ヒンデミットはドイツで5年間努力してみましたが、結局なんとかできるという自信を失ったようです。私はといえば、全く自信がないとしかいえません」
ブダペストで最後に夫人と演奏した録音が残っています。
私のハンガリーの先生は39年生まれなので、バルトークの演奏は聴けなかった、と残念そうに仰ってました。
ピアノのために作曲された「15のハンガリー農民歌」は、1914年に一部の曲が出来上がったところで第一次大戦が勃発し出版中止、終戦後、18年に民謡採集を再開し現在の15曲でまとめられました。

前出のパウル・ヒンデミット(1895-1963)。育った家庭は経済的には豊かでなかったが、父は子どもたちの音楽の才能を伸ばそうとしてくれました。ヴァイオリンの才能があったパウルは19歳で演奏の仕事を始めた途端、志願兵だった父が戦死、家族を支えなければならなくなり、自身も軍隊に楽団のメンバーとして召集されます。第一次大戦後、弦楽四重奏団にヴィオラ奏者として復帰、作曲活動も始めます。彼の作品は話題を呼び、自身も明確な意思を持って演奏会企画や作曲活動を精力的に繰り広げ、ベルリンの音楽大学の教授にもなります。
伝統的なドイツ音楽が始まりで、フランス、新ウィーン楽派の無調主義、バルトークなど色々な様式を取り入れ、バロック音楽に遡り、オリジナル楽器を使った中世やルネサンスにも興味を抱いていました。
そんな伸び伸びとした才能を「ドイツ人としての使命に背く」と潰そうとするのが、ナチスの異常な暴力性。
それでも人気のあったヒンデミット、紆余曲折あり、38年にスイスに移住、結局40年2月にアメリカへ渡りました。
「愛好家と楽友のための歌い演奏する音楽」という変わった題名のついたものをはじめ、アマチュア演奏家を育てていけば、現代の音楽と聴衆との間の溝を埋められるだろう、とアマチュアのための音楽を作曲しました。その「Spielmusik演奏する音楽」中に、ファゴットとコントラバスのための小さなデュオがあります。

そしてチェコは東ボヘミアの生まれ、ボフスラフ・マルティヌー(1890-1959)。本職靴直し職人、それだけでは収入が足りないので村の教会の鐘楼守をしていた父親は芝居好き、母親は歌が上手でした。この人もはじめはヴァイオリンを学び、音楽院ではヴァイオリンからオルガンに転科、演劇や文学、作曲に夢中で「矯正不可能な怠慢」(!)を理由に退学させられます(どの時代にも優秀な人材が学校では落ちこぼれ、ということはあるんだね!)。働きながら作曲を続け、1923年念願かなって奨学金を得てパリへ。それから17年間貧困の中、この地で活動します。この頃のパリの活発なムーヴメントの影響を受け、ストラヴィンスキーに接し、ジャズやラグタイムにも出会う。ヒンデミット同様、バロック時代の作品を学び様式を取り入れた作品も書きます。30年代、結婚してから、チェコの民族としての意識や民謡への思いが強まるのは、政治的な緊張からであり、ナチスのチェコスロヴァキア侵攻や村で起きた残虐行為が大きな要因となるのです。ナチスのブラックリストに挙げられていたマルティヌーは40年6月にパリを離れフランス国内を放浪し、その間も作曲を続け、41年3月にやっとニューヨークへ渡りました。
ヴァイオリンとチェロのためのデュオ第2番は1958年、亡くなる前の年に書かれました。


💠プログラム
J.S.バッハ:トリオソナタ ト長調 BWV1039(ヴィオラ・ダ・ガンバソナタ第1番BWV1027)
ヒンデミット:ファゴットとコントラバスのための二重奏曲、二つのチェロのための二重奏曲
J.S.バッハ:フルートと通奏低音のためのソナタ ホ短調 BWV1030
マルティヌー:ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲 第2番
バルトーク(富田牧子編曲):15のハンガリー農民歌
posted by makkida at 00:46| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする
当サイトの写真の無断転載・無断使用はご遠慮ください。