2016年06月05日

芸術が形になるとき

オディロン・ルドンのことば。

・・・私には人が「譲歩」と呼ぶものがまったくわかりません。人は好きなように芸術をやるのではないのです。芸術家は来る日も来る日も、彼をとりまく諸事物の受信機です。彼は外部からさまざまな感覚を受けとり、それをただ自分の命ずるままに、宿命的で、妥協を許さない、かたくなな道を通じて、変形するのです。本当に物が作り出されるのは、発露の必要から人がなにか言うべきものを持つときだけです。私は、季節季節も彼に働きかけるとさえ言いたく思います。手さぐりや体験が彼に明かす、こういった影響の外で試みられたしかじかの努力、しかじかの試みは、もしこれらの影響を無視するなら、彼にとって実り少ないものです。


 芸術作品というものは、芸術家が提供する感動の酵母だ。一般大衆がそれをどう扱おうがそれは彼らの自由だ。ただ、愛をもって接してくれさえすれば。
『私自身に』


芸術作品は三つの源泉、三つの原因から生まれる。伝統、現実、個人の創意、この三つである。
『私自身に』


 芸術家は聖なる権威を持って、自分が他のものよりもはるかに上位にあると考えてはならない。創作のセンスというものは、すでにしてなにがしかのものだが、それが全てではない。ある人はまったく平凡で、美を感ずることなど到底できないほどだが、優れて意識の高さ、高貴さを示すことがある。ベートーヴェンと芸術の神が生を振り蒔く世界に生きられることは、天に感謝すべきだろうし、特にそれを理解することができることを誇りに思うのは、当然だ。だが、そういうことによって人より優れたいと思っている人々のまったく自分勝手な苦悩は、エゴイストで凡庸なものだと思う。
『私自身に』

                                        
 こと芸術に関しては、私はどんな党派、なんの流派にも属さないし、属したくもない。しかし精神の公正さというものがあって、どこにあろうと美しいものがあれば、それを称賛し、美しさを理解できる人に、美を伝え、説明したいという欲求を課す。
 私は非妥協者ではない。私がある流派に喝采することはけっしてない。誠意を持ってどんな流派を推奨されたとしても、流派は過去を考慮に入れず、純粋な現実性の中の限られた存在でしかない。
『私自身に』


 私が喜んで願うことは、もはや戦い合うことではなく、闘うならば生の充実のためであるような世界を見ることだ。賛嘆と憐れみによってのみ侵略され、その砲弾は最良の、聖なる大地の果実であり、人間と神のすべての産物、それに芸術と理解の及ぶ範囲の思想と科学、あるいは善の書物、それらすべてが一つであるような世界を。
『私自身に』

posted by makkida at 21:56| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする
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