2017年07月20日

表現の自由

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レイチェル・ポッジャーが1990年代終わりに録音したJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンを聴いて、「表現の自由」ということが頭に浮かんだ。自然体の演奏から、作品の魅力と音楽への親愛が素直に伝わってくる。こんなに有名な曲でも、まだこんな演奏ができるんだ、と新鮮に感じた。演奏家が音楽と向き合い感じたまま演奏する、これが自由に考えるということかと思った。同時に、図書館でたまたま見つけたCD、イタリアのアンドレア・バッケッティがファツィオーリのピアノで弾くバッハを聴いて、また感じた。勝手きままではなくて、ヨーロッパの人には「自由」は成長する段階で学び、思考され、身をもって体験し、根付いていくのではないかと思う。
最近、ラジオで美術における「表現の自由」についてどう思うか、と若い人に街でインタビューしているのを聞いた。危険な展示の仕方や身体の露出などについて、「規制をしたほうがいい」とか「自由は大事だけど・・・何でもやっていいというわけではない」というような何にでも使えそうな浅い一般論をコメントするのを聞き、自由の意味と言葉の使い方に違和感を抱いた。
展示に耐えうるまで熟考されていなかった場合、表現の自由とは別問題だ。
他方、束縛からの解放を意味するのではないか。または、反抗とか。もちろん、抗議の手段として、またはメッセージとして芸術作品を表すことはある。
ただ、奇抜なものが個性的で表現の自由に直結すると捉えるのは短絡的だと思う。

自由とは、物事の本質にそれぞれがまっすぐ向き合うことなんじゃないかな、と夫が言った。

人が言葉を大事に選んで使うとき、少しのニュアンスの違いを感じ取る。言葉の持つ意味を考える。何について書くか内容全体は、それぞれどこから見るかどこを切り取るか様々だ。音も然り。内面世界が一人一人あるのだから、おのずと表現が色々ある。
先生の考えや表現の仕方を(これが正しい答えだと言わないまでも)学び、まずそれができるようになってから、さあ、自由にやってごらん、卒業したから自分で考えて自分の表現をするんだ。
そうだろうか。できるだろうか?
この時代はこうだった、こうしなきゃいけない、という法則や決まりごとは勉強するが、それを正しくできたら終わりではない。学生のときだけでなく、生涯にわたって考え方や様々な思考回路を学ぶが、その時々、答えは自分で出すものだ。完璧ということはない。毎回の演奏とは、これは自分の考えである、という表現であり、それに間違いはないと思う。どんなに若い時の演奏だって、そのときのありのままの姿であれば説得力がある。

もちろん、彼らは特別に才能豊かであるけれどもね。

レイチェル・ポッジャーの演奏を聴いて、私のバッハの原体験を思い出した。休日の朝、父親が好きなバッハのレコードをよくかけていた。それはカンタータだったり、もしかしたらチェロやヴァイオリンの無伴奏だったかもしれない。幼くて何も知識はなかったけれど、生き生きしたリズム感や音の運び、気持ちのいい、新鮮な(今思えば、私の精神が喜んでいる)音楽は、後々私の中に親密な音楽として残った。
ああ、これが好きだったんだ、と。
無伴奏の録音を控えて、こんなに自由な表現ができるんだ、とバッハを聴いて原点を思い出せたのは嬉しい。
posted by makkida at 23:46| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする
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