2018年03月28日

絵とお話と聖歌

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ユビラーテ奏楽者の会の宗教改革500年特別企画で、「宗教改革の精神による美術」と題して、画家・渡辺総一氏による講演と絵画展が東京の目白で開かれました。氏が常に題材にしておられる聖書の中から、それぞれの作品の元となった箇所や聖句をお話しされ、その後それに関連するルターなどの16〜18世紀に作曲されたコラールを、義母木田みな子氏の演奏するリードオルガンと一緒に歌う、という内容でした。
まず、まっすぐに神と一人一人が直接つながり、自由であること。そして、深い信仰を持って聖書をよく読み勉強され、「自分を無にして」ただひたすらに絵を描く。渡辺氏の制作のベースとなっている宗教改革の精神は「描かれているものだけが見えれば良い。描き手はそこにいなくていい」ということ。その真摯な姿は、まさに音楽の在り方そのものだと思いました。
細部にわたって丁寧に描くことは、技巧を見せるための(私の技術を見て、という)ものではなく、よくありたい、よく描きたい、そのものの本質に迫る創作の心構え(生き方)の現れなのであり、それは音に気持ち(と言うと語弊がありそうだが・・・)が入った、音が消えるまで与えられた時間いっぱい満ちている演奏と同じだと感じました。
聖句の意味と絵のつながりが渡辺氏の熱い想いとともに伝わり、それだけでも涙がこみ上げてくるのに、続くコラールでは感動が最高潮に達するのでした。
素晴らしい時でした!!!

この内容は芸術家にとって本質的な、なんのために(どうして)芸術はあるのか、という現れです。

ヨーロッパ各地の美術館、教会などで必ず目にする膨大なキリスト教美術。芸術は宗教と切り離せません。
宗教改革以前、カトリックの信者も自己顕示のためでなく、ただ神を賛美するために、感動を持って美を創造したでしょう。美しいものを作りたい、という欲求は止めることができない。生まれた時に信仰を授かって、神の存在は当たり前のようにある芸術家が、若いときは己の素晴らしい技を見せる作品を製作したとしても、いい条件でたくさん仕事をするためには権威に認められる必要があるし、当然でしょう。制作に没頭するときは、上司や権力に認められるためではなく、天と直接繋がって霊的なものを受けたに違いありません。
どんな組織でも力が集中しすぎると傲慢になり一部の権力者とそれに媚びる人々のみが潤い、社会に腐敗が始まり、全ての生き物の命が大切にされる平和な「神の国」の理想は無くなる。歴史上、その時々に、聖像や美術作品を破壊までして本質と向き合おうとしたのでしょうけど、その考え方は偶像は拝まないという形でも今に至っているのだけれど、芸術が悪い、贅沢なわけではないでしょう。
勉強不足なのでまだ何か言える身ではありませんが。
謙虚な心から生まれた作品が時代を超えて人々を感動させてくれます。太古から人間は、大いなる存在を感じて創造し続けているのでしょう。
それぞれの作品と向き合ったときの対話・・・自分のどんな心の状態になるか、自分が何を感じるか、何が見えて(聞こえて)くるか。横のつながりの前に、作品の作者も見ている私もそれぞれ垂直のつながりがあるのでしょう、気づかないうちに。

終わってからの感想になってしまいました。
ぜひ、間を置くことなく同じ内容で再演、いや、何度もあちこちで開催されますように。


posted by makkida at 23:58| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする
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