ハシディックダンスとは、踊ることによって神秘的体験をする、敬虔なユダヤ教徒の祈りの一つの形です。黒い服を着て帽子をかぶったたくさんの男性が歌いながら、円になって歩き、踊り続ける、その姿には圧倒されます。
18世紀に東方ユダヤ人の中で一種の覚醒運動として生じたハシディズム。マルク・シャガールはダビデが礼拝で踊る絵を描きました。
多くの宗教では音楽と踊りはとても大切です。信仰深い人たちが儀式で、祈りの詩に合わせた節を歌ったり、踊ることによって、神に近づこうとします。永遠に終わらないんじゃないか、と思えるほど繰り返し繰り返し歌い、踊る。そのうちに恍惚状態になるのです。ハシディズムでは祈りの踊りは喜びの表現であり、精神を高揚させ鼓舞するものです。生を肯定する、生きることの喜びです。魂を清め、自らを癒す、まさに治療の効果があると考えられています。そしてコミュニティーを一つにし、社会的な関係を高める役割もあります。
ジクムント・シュールは1916年、ドイツのザクセン地方ケムニッツでユダヤ人家庭に生まれました。1933年ジクムントが17歳の時、チェコのプラハに移り住みます。その後、ベルリン音楽大学でパウル・ヒンデミットに学び、1937年に再びプラハに戻ってからも作曲や指揮の勉強を続けました。学生のときすでに高度に熟達しており、ヒンデミットによると直感に優れていたようです。
プラハ時代に(といっても、17歳から25歳の間ですが!)ユダヤ教信仰に近づきラビの家族と親しくなります。そのラビの勧めによって、19世紀初めのシナゴーグで使われていた朗唱や歌を勉強する機会を与えられます。
そして1941年11月にテレジン強制収容所へ送られてしまいます。この収容所にはたくさんの芸術家がいて、そこで音楽活動も行われていたようです。ただ、それは、ナチスのプロパガンダに使われたのです。つまり、厳しい場所ではあるが、文化的な活動を見せることで、少なくとも囚人の尊厳を守ることを認めている、と見せるために・・・。テレジン収容所は絶滅収容所への通過点の場所でもありました。
シュールは抑留中も作曲を続け、しばしば音楽家仲間のヴィクトール・ウルマンと会い、新しいこれからの音楽についてあらゆる角度から(形式、調性、様式、美学について)、そして彼の進行中の仕事(作品)に関する様々なことを話し合ったといいます。
20代後半、力がみなぎって、才能が開花したばかり、これから道のりを歩み出そうとする若い音楽家の純粋で真摯な姿を想像し、その不条理で残酷な事実を思うと、たまらなくなります。シュールは結核を患い28歳で収容所内で亡くなりました。
ヴィオラとチェロのための「2つのハシディックダンス 作品15」は1941年から42年に書かれました。恐らく、収容所内で初演され、元はヴァイオリンとチェロのために作曲されたものをヴィオラ用に直したのでしょう。シュールはヴィオラ奏者でもありました。