2019年03月05日

世界は未知で満ちている!

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世界には様々な民族がいて、どこからやってきたのか、そのルーツや通ってきた道があります。その過程で民族独自の文化(食べ物、言語、服装、音楽、踊り、美術・・・)が育まれ形成され、そして変化します。
東は琵琶、西はリュート。その原点にアラブのウードがあります。
ウード奏者常味裕司氏の演奏をホームコンサートで聴く機会がありました。

民俗楽器を演奏会場で聴くときはマイクを通すことが多いですが、やはり生の音を体感するのがいいですね。その地域の人々を知り、オリジナルの楽器を知り、言語を知り、踊りを知り、匂いを肌で知った演奏家は、音に潜在する生きている波動を表現しています。
受け取る人は、このような目に見えないものを、可聴範囲外のものを音の中に聴きます。
この日の演奏はもちろん機械的なものを一切使わない。
以前、ブラジルのショーロのグループの演奏を大ホールで聴いたとき、一曲だけマイクを通さずに演奏してくれたのです!その演奏を客席全体が耳をすまして、全身を耳にして聴く、その澄んだ空気感、いい緊張感。空気に乗ってグルーヴが伝わる。音は空気の振動だもの、当然です。演奏家の普段の声や音楽は新鮮で、最も印象に残りました。
真摯に文化を身体で受け止めて表現している音楽家の演奏は、小さなライブハウスなら、ぜひマイクを通さないで欲しい!

さて、ウード。
4度調弦の特徴である楽器の中での弦の共鳴が、ヨーロッパ音楽独自でないことを知りました。
演奏する常味さんの向こう側に、私がまだ見たことのない、とうとうと流れるナイル川、砂漠、風に揺れる緑、広々とした風景が見えました。

ホームコンサートを開催した作曲家が、自身のピアノとウードが共演できるように曲を書いたのですが、この日は演奏されませんでした。「難しいから」とおっしゃる。ただ音符をなぞるのは演奏ではないという意味も含めて。
「演奏するには何ヶ月も、何年もかかるんです」
それは、この作曲家の作品が「すぐ弾ける」ような内容ではないという意味でもあります。どんなに単純な音符だとしても。

音楽の世界(業界)では「すぐ弾ける」ことがクローズアップされすぎていないか。
短期間で弾けるようになること、楽譜を見たら初見で弾けることは才能の一つであり、その人らしさです。
人の作品を演奏することは、作った人のことを知ることでもあります。もちろん深い意味で完全に理解することはできませんから、知ろうとする交流とか学びのことです。どうしてこの音がここに存在するのか、何度も試して考えて繰り返し練習し、身体に技術が馴染んでくるのです。
日本人にとって西洋音楽もアラブ音楽も異文化です。長い歴史の中で繋がりはあったとしても、気候も言語も宗教も生活様式も違います。作品それぞれ、一度勉強したら終わりではなく、弾くたびに、そして使う楽器によっても新たに学ぶものです。

演奏会に間に合わせるために不消化だったり、勉強不足だったり、その曲を弾くための技術が身体に入っていないことがいかに多いことか。
もちろん仕事には期限があり、それまでにできないことだらけですし、勉強や理解に終点がないことは確かなことです。一方で、楽譜に表すことができない民俗音楽を人生の仕事としている人を目の当たりにして、改めて芸術の本来の姿や核心に気づきます。

そして、簡単に音が出せる楽器では技術が上達しない、という意見にも共感!潜在力のある楽器は弾きにくいものであり、いかに演奏者が音を引き出していくか、楽器を育てるか、そして自分のテクニックを築き上げるか。凹凸感や個性のない弾きやすい楽器で速弾きすることは、ただのメカニックです。存在感が薄くなります。
便利なことが芸術にとって不幸なこともあるんです。

音楽の本来の姿は、演奏家の身体を通して出てくるものです。その人間から出てくるもの。
氏の真摯で力強い魂に、刺激と勇気を頂きました。
posted by makkida at 09:59| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする
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