2019年11月06日

不器用に生きること

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ギャラリー古藤さんにて無伴奏チェロ&羊とヤギ&写真展、無事終了しました。お集まりくださったみなさま、ギャラリー古藤さん、応援してくださった方々、どうもありがとうございました。写真の展示の準備が何よりたいへんでしたが、今まで《羊とヤギ》で演奏して来たヒルデガルトの音楽が、ゆかりの地の写真をみなさんにご覧いただくことによって、少しでも近い存在として印象を残していただけたのではないかと感じております。
1日に3回コンサートをすると、それぞれの回でお客さまの素敵な興味深い話があり、広がりがあり(それがどの回だったか忘れてしまうほど!)、本当に豊かな出会いをいただきました。オリジナリティのある活動をされていたり、困難にある人を助ける方や、病気を持った方、こんなに経験豊富な方々にお聴きいただけて感謝でいっぱいです。演奏家はいいところも弱いところも全てさらけ出し、それでも、みなさんは喜んでくださる。お客さまに感動します。

色々な教会の牧師さんの説教を聞くと、聖書の解説に留まらず、自分はどうして牧師になったか、己の生き方を聖書のどこに見つけているか、社会の問題を聖書のどの部分と繋げているか、どうしてこの聖句を選ぶのか、言葉を大事にするのか、内面の告白のようなものに触れるときがあります。若いときに出会った人(の死)や事柄についてずっと考え続け、牧師になろうとした大きなきっかけになった、とか。

お金を稼ぐためだけなら、深く思い詰めるほどの理由がなくても仕事は見つけられるだろうに。
音楽家も同じだなあ、と思うのです。
どうしてこの音が存在するのだろう、と身体でいちいち納得しなくても、鍵盤を押せば音は鳴るし、弦のこの場所を抑えて弓を擦れば音程は作れる。
大きな音から小さな音まで出せて、速く指が回って、ゆっくりのロングトーンも出せて、ポジションチェンジは繰り返し訓練して、あらゆる技術を身につけて、たくさんの曲を勉強すれば、職業として成り立ちます。どんどんこなしていけます。もちろん人付き合いも大事ですが、ハッキリと物を言わなければ嫌われません。

一方で、「音が存在する」ことを宇宙の動きとともに捉えている人間もいるのです。
災害があるときに、音楽なんてやっていていいんだろうか、明日生きられるかわからない状況で「役に立つ」ものでないかもしれないのに、人間が生きるのにどうしても必要なもの。
アカデミックな勉強をした人は、クラシック音楽ではこういう決まりがある、ということをベースにしています。ああ、こんなこと、どうなんだろう!!!
上行形はクレッシェンド、下降形はディミヌエンド。どうしてそうなんだと思う?
自然のエネルギーはどうなんだ?軽やかに駆け上がるときと、重いものがひとつひとつ持ち上がっていくときのエネルギーや、転げ落ちるときと、踏ん張りながら降りるときのエネルギーは違うじゃないか。音楽は元をたどれば自然界から生まれたもので、人間の生活の中から生まれたもの。
人間が決めたことは誰かが決めたこと。
ある時代やある様式、作曲家、その作品、それぞれに特徴を見出すのが演奏家の仕事でしょう。その「語法」を見つけて技術を試行錯誤し、喋り方を音にする。それが自分の身体に入ってくる。
音程の取り方ひとつだって、たくさん気づくことがある。まず自分の楽器の素の声はどんなだ?弓をどのくらいのスピードで、腕の重さ(圧力)はどのくらいかけたらどんな倍音が出るか。うねりはどうか。共鳴しているか。重音の弾き方は。どのようにハモらせるか。二つの音のバランスは・・・。余計な力が入っていたら楽器は鳴らない、共鳴しない。今、体はどんな状態か、呼吸は自然かどうか。弓の毛が弦に触れる感触。弦の振動を感じる指。
気づくことは山ほどある。
楽器が喜んでいるかどうか。音楽と身体がぴったりきているかどうか。そして頭と身体が開いて、音が素直に出ているかどうか。嘘がないかどうか。

そういうことをずっと考えて、いい音を出したいと思ってやってきました。呼吸するのと同じように音を出し、弾くことで癒される。音楽が私にとってなくてはならない存在です。
私の音を聴きたいと思ってくださる方からは、こうやって時間をかけてやってきたことが決して無駄ではなかったと励まされます。
だからこそ私に出せる音なんだろうと思うのです。
posted by makkida at 22:55| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする
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