2019年12月05日

カラダは嘘をつかない

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演奏をする、という行為は、楽器を弾く技術を向上すればなんとかなるものではない、そして、クラシック音楽は知的な要素が必要であることもご存知の通り。

大学院にいる間に一度、留学しようと試みたことがあったが、手続きがうまくいかず、休学も取りやめて復学。ヨーロッパに行けない分、基礎をやり直す、なんて目標決めて、夏休み中、音階やポジションチェンジなど基礎練習ばかりやった。曲も弾かずに。その挙句、気持ちが表に出せなくなり、曲を弾くとき左手のポジションチェンジが怖くなった。食欲がなかったわけではないのに一ヶ月で5キロ痩せた。
心が閉じて、硬くなったら、楽器は弾けないのだ。
熱意のない基礎練習、反復練習なんて、カラダはやりたくなかったのだ。拒絶していたのだ。

室内楽、特に弦楽四重奏は私にとってとても大切だ。ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルト、バルトーク・・・残された作品が素晴らしい。音楽の内容の奥深さや難しさを解いていく過程に長い年月かける意義がある。4人の個がそれぞれの音楽を持って、その芸術作品と合わさった時に、不思議な力が与えられる瞬間がある。過去の音楽家が苦悩しつつまっすぐに己と向き合い、そのとき、そのときに「これしかない」「これだ」と生まれた音、作品。何十年、何百年経った今、演奏する者も、「これだ」という音を見つける。本番まで答えが見つからなくても、コンサートで4人がまっすぐに音楽と向き合っているとき、どっぷり音楽に入っているとき、「これだ」という瞬間がある。
ああ、これを聴き手も待っているんだと思う。

そんな思い入れがあったので、なんとか理由を見つけて続けた。気持ちも音も言葉もピタっとしていなかったのに、「このグループに10年後いる姿が思い浮かばない」「一生続ける場所ではない」と分かっていたのに。
世の中で認められている地位にある団体に属し、そこでうまく役割を果たせれば、「私が」自分を認められる、と考えた。正しいのだ、と思った。今、私が勉強すべきなんだ。いつかできるようになるはず。馴染めない自分、できない自分がダメなんだ、と。

カラダは嫌だと言っていた。
萎縮してしまう。音が出ない。笑顔が出ない。思っていることを話せなかった。
リハーサルも休みたくてしょうがなかったが、できない理由は見つからない。
とうとう、足が動かなくなった。ノンステップバスで足が上がらず、あの低いステップに足を引っ掛けて転んだ。その瞬間、いや、しばらく痛みを感じなかった。血が止まらないのを運転手が見て、バスを止めることになってしまった。生まれて初めて救急車に乗った、チェロと一緒に。そして運ばれた病院で12針縫った。そのあと電車に乗り1時間かけて帰宅することに麻酔が切れて痛みを感じた。
電車で揺られながら、ああ、明日のリハーサルは休める、とホッとした。

一緒に弾けて楽しい、という一番大事なことが抜けていて、どうしてお客さんに喜んでもらえるんだろう。
楽譜にあることを理解しようとし、勉強や練習は熱心にやっていたかもしれない。根っこを忘れた、ショーケースに入ったような音楽が、人の心に伝わるんだろうか。
生演奏は完璧な形に作り上げることはできないと思う。その瞬間は最高の仕事を精一杯したとしても。高く険しい山であればあるだけ、高い理想があればあるだけ、どんどん遠ざかる。人間は完璧ではない。
でも、人間を信じ、人間は善であるだろうことを信じ、音楽を信じ、大いなる存在が導くことを信じられる、そんな音楽が存在すること、その音を表現できることに喜びを感じ、毎回、心が震えるのだ。ベートーヴェンのカルテットには、特に中期後期の作品にはそれがある!

日々どこを向いているか、で歩いて行った先はだいぶ変わる。
異文化に出かけて「まだ無い」道を自分で切り開き、時間をかけて隣人と付き合い認め合って、多くの人の命を大切にした人を想う。






posted by makkida at 01:07| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする
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