2020年04月14日

音楽学者からの時を超えた贈り物

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準備して来たリサイタルは予定通りには開催できないけれど、延期した1年後までに新たな発見があることは、小さな、いや、大きな恩恵です。
ここ数週間、私の夫の伯母である亡きチェンバリスト有賀のゆりさんの遺品を片付け中。大量の本や雑誌、文献を整理しているあいだに、私が取り組んでいるバロックから古典派の作曲家やその周辺に関する読むべき物が色々見つかりました。
そのうちの一つに、1999年11月に関西で行われた、音楽学者Kirsten Beißwengerさんの「J.S.バッハのチェロ組曲の例に見る演奏実践とアーティキュレーション」と題する講演の全文のコピーが残っていました。のゆりさんが学会の会報にこの講演会の報告文を書いた、その原稿と一緒に。

J.S.バッハのチェロ組曲は、ロマン派以降、様々なチェリストが強弱や表情記号も加えて独自のスラーをつけて楽譜を出版してきました。それはこの曲に限らず、その時代の音楽解釈で古い音楽を演奏していた習慣があったからでもあります。現代では、多くの演奏家が、音楽作品が作曲された当時の楽器や演奏スタイルで歴史的にauthenticな響きを実現しようとしています。

その理解のためには、まず、音楽学の視点が必要だということ。自筆譜以外にも確かで頼れる文献に出会うことが大切。
それをわかった上で、どのような演奏をするかは演奏者個人が考え、選ぶことになります。
このチェロ組曲はバッハの自筆譜が残っておらず、一番近い妻のアンナ・マグダレーナの筆写譜は大事な資料です。彼女の筆写は、音符に関しては確実性が高いけれど、スラーはだいぶ曖昧。
スラーが音符のどこにかかるか、と言うことは、どのようにアーティキュレート(音節に分けて明瞭に発音すること)するか、ということに直接関わってくるので、演奏上とても大切なことです。
残念ながら、アンナ・マグダレーナの写譜はバッハのオリジナル楽譜とは言えません。
例えば、組曲第1番のプレリュードの冒頭3小節は同じ音形なのに、彼女の書いたスラーは全て違います。他にもたくさんの場所で辻褄の合わない、どこにかかっているのか判明できないスラーの書き方をしています。

バイスヴェンガーさんは、バッハの自筆譜とマグダレーナの写譜が残っているヴァイオリンのための無伴奏曲を見比べ、彼女の癖を調べ、解析し、そこから得た見方でチェロ組曲のスラーを考えていくわけです。バッハの楽譜を再現することは不可能だけれども、どこまで近づくことができるかアプローチし解明していく作業をバイスヴェンガーさんは行った。
彼女の講演内容では、他の研究家の例えを出しながら、バッハのアーティキュレーションには非常に統一性があることも同時に示しています。
アンナ・マグダレーナは音符は完璧に写せたのに(そして筆跡も夫にとてもよく似ている!)どうしてスラーはこんなに不明瞭なのか?
それは、彼女は演奏技法の知識が欠如していたから。
アーティキュレーションについて、スラーをつけたり音を切ったりする技術的なことや意味について、身体で分からなければ(演奏者としての視点です。例え弦楽器を演奏できないとしても!)、スラーの書き方に大切さを見出せない、書き方が分からないのではないか、ということを明解に述べておられました。

チェリストAnner Bylsma氏の功績を疑う人はいないでしょう。彼の言ったことでずっとひっかかっていたことがありました。
ビルスマ氏は、アンナマグダレーナの楽譜を信頼の置ける楽譜として、彼女の統一を欠くスラーを忠実に再現して演奏することを目指した。18世紀には同じことを繰り返さないという習慣があったから。バッハは弾くたびに色々試し、それを楽譜に上書きした・・・。

演奏体験から「そうかもしれない」「そうだろう」と推測はできるでしょう。
アーティキュレーションはこの時代最も大切な音楽の要素だし、バッハはそんなに曖昧で統一性のない話し方をチェロ組曲で用いたのだろうか、と思っていました。感覚ではなく、裏付けが欲しいのです。
まだまだ自分の中で納得いかないことだらけだし、楽器の調整についても知りたいことが山積みだけれども、核心部分のモヤモヤが晴れました。

バイスヴェンガーさんも夫君の小林義武氏も、このバッハ研究者夫妻は、ちょうど私がガット弦とバロック弓を使い始めた時期に亡くなられました・・・。

音楽学の助けによって真正性に近づくことで、音楽作品の魅力を引き出す演奏が可能になる。毎回の演奏というのは、霊感を受けた音楽家が生み出した音楽がまた新しく生まれる時。やはり、のゆりさんは学者であったのだなあ、と思います。説得力がある演奏は、その演奏家が学者でもあることからもわかります。
理解が深まり、頭と精神と身体のバランスが取れ、全てが繋がっている演奏を追求するのには、終わりがない・・・。


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