2020年05月27日

骨組み

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最近はあまり聞かなくなった気がしますが(そんなこともないですか?)、30年前には、対談やインタビュー記事などでもよく目にしました。それは、『日本人として(日本人であるあなたが)、どうして西洋音楽をやるのか』ということ。
実際、私が高校生のときに、ある先生が「答えられるようにしておきなさい。なんでもいい、簡単な答えでいいんだ。」と仰ったのを覚えています。すぐ答えているクラスメートもいましたが、私はその場では全く答えが思いつかなかったし、そんな単純じゃない、と思いました。
私にとっては、日本の歌謡曲や演歌の方がずっと身体に馴染まなかったし、そのリズムの感じ方や音の質、何か前提としているものに違和感がありました。
クラシック音楽が、ヨーロッパの歴史の中にあることや、言語が違う人たちのものであること、文化も宗教も、気候も、住んでいる建物や食べ物も含めて生活様式も、知識の上では「違う」ことは分かっていました。が、自分の中にしっくり来る感覚には、それほど違いがあるとは感じてませんでした。まだ外国に行ったこともなかったので、その感覚も不確かではありましたが。
ちなみに、その後、ヨーロッパで、その問いをされたことは一度もありませんでした。

本質的なことを感じていたのだと思います。
仏教とキリスト教の違いかもしれません。どの宗教でも、行き着く先は同じところなのだけれど、方法や捉え方が違います。
キリスト教の聖書では、人間の歴史(間違いを犯してきた歴史)がたくさん述べられ、初めから人と人の関係性があり、自分個人の問題が同時に人類の問題となり、問題の本質を考えることが求められます。それは、西洋音楽にとって大きく関わってきます。

日本人だから日本の文化や文学の中身が理解できる、その心が身体にあるとは限らないと思います。

日本の芸能では、師匠から芸を厳しく叩き込まれ、真似ることを繰り返し、身体が覚えて自分のものになります(まるで乗り移るかのようなことがある)。どうしてこの動きをするのか、という意味を知るより前に身につける。面白いことに、覚えこんだ芸はその人しかできない表現になります。
一方、西洋音楽では、先生のいう通りに繰り返し、どんなに勉強して、知識を得て、技術を身につけても、本質を見いだせなければ自分の表現(自己表現という意味ではなく)にはなりません。
バッハやモーツァルトやショパンは、演奏者の個人的なものを表現する音楽ではないのです。個人の孤独をひしひしと感じる、心の告白のような音楽もありますが、それは演奏者の問題ではないのです。
現代の音楽は個人的なものもあるかもしれませんが。

骨組みのようなものだと思います。
考え方の骨組み。
「北欧風」インテリアなど、何々「風」の物を真似しても、家そのもの(建築)の構造が違うのだから、同じにはなりません。表に見えている部分を受け入れても、そのものにはなりません。
建築物は想像しやすい例えかもしれません。音楽の形式の構造、楽器の構造、音、音階、言語の構造。そこから派生して、骨格が明確です。
構造だけでなく、響きも立体的です。
それに必要な技術はシステマチックに構築できたとしても、人間の身体は頭で考えたように動かないから、いや、逆に、意思を超えて自然に繋がりを持って動けるから、人間が謙虚でいることは大切だと思います。

辿っていけばどれもルーツは自然崇拝になるのではないか。それも音楽のルーツなので、その感覚は大事だと思うのです。
「ああ、今日の月は綺麗だなあ」と見ている月は、何千年、何万年も、人間が存在していた昔々から見ていたわけで。周りの風景は全く違っても、月そのものは同じ。当然のことでしょうが、とても不思議な感覚。そして、とてつもない安心感。

posted by makkida at 22:51| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする
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