2021年08月05日

「束」に対する個人

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8月は特に、過去の戦争を思い出す月です。今こうしている間にも、地球上に紛争状態にある国はあり、思い、考える機会はいつでもあります。この猛暑に追体験するのは、肌身で感覚を得やすいのではないかと思います。
コロナ禍が「戦争状態だ」と言う人もいます。または、戦時中の状況と似ている、そんな「気分」で当時よく使われた言葉を使うことを恐れます。根本的に違うのに、一部似ているからと、その言葉として発した時に、自らや周りの人をその状態にしてしまう怖さ。今持っている自らの自由を手放してしまうことに繋がるのでは・・・。
私は家ですぐ手にできるところに「日本国憲法」の小さな本を置いています。
序文、2章、3章に目を通すと、全て(世界中)の人が個人として尊重される存在だ、という重い意味にハッと目が覚めます。第二次大戦中に大事にされなかったことが書かれている。個人の権利は自分勝手ではないことは、憲法をよく読めば解ります。むしろ、個人と公共、社会、国の関係は他人任せではなく考え続けることなのだろうと思います。
国家が戦争をする時、国民を「束」として扱います。
オリンピックは国と国の戦いに簡単に置き換えられやすいように感じます。中継の時に使う言葉に違和感を抱くのです。アスリート個人の背景や努力や楽しみや喜び、彼らの人生を尊重せず、勝ち負けが国の評価になってしまう。
言葉は一人歩きするわけでなく、発した人の中から出てくるもので、その人(組織)の考え方でもあります。理想を持つことや、理念の共有は大事なのでしょう。

以前も書いたかもしれませんが、私は小学生のある夏に「はだしのゲン」の実写版映画を観て、ものすごくショックを受け、爆弾が落ちるとこんな悲惨な状態になってしまうのかと想像して恐ろしくてたまらず、一夏ご飯が喉を通りませんでした。
武器を使った戦争は最大の暴力で、地球破壊だ・・・。
戦争中(前から)にユダヤ人が、朝鮮半島や中国その他東南アジアの人々が受けた現実は、戦争でない状況でも根っこが残っています。差別は戦争の種です。
自分は権力側の人間だから安全、という発想は簡単に陥りやすい。恐ろしいことです。自らが個人として偏見や差別に加担せずに行動する、ということを実行するのは本当に厳しく難しいけれど、「束」になって安心しない、「不断の努力」なのでしょう。
posted by makkida at 12:43| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする
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