あとひと月で2022年が終わろうとしているのに、ウクライナでの戦争は終わらず、世界中で自国を防ぐため武装する方へ向かっています。
戦争は始まったらなかなか終われない、終わらない。政治家もどんな宗教も戦争をやめさせることはできない。誰が始め、誰が続けている戦争か。
戦って命を落としているのは最前線の兵士たち、破壊されるのは人々の生活、傷つけられるのは人々、家、田畑、家畜、学校、店、工場、人の心。子どもや学生はコロナ禍で、学ぶ場だけでなく様々な行事を奪われてきたのに、戦争によってさらに貴重な機会を失います。
今、地球の最大の課題になっている環境破壊に、もっとも貢献している戦争。それを引き起こすのは私たち人間。人間の歴史が始まって、ずっと繰り返されてきた人の暴力、国と国の戦争。
人間の愚かさへの反省から、命の尊さ、生かされることへの感謝から芸術や文学が生まれ、また戦争が繰り返され・・・。
武力ありき、では地上に平和は訪れないでしょうに。
西洋音楽はキリスト教と切っても切り離せない繋がりを持っています。
今、待降節(アドヴェント)の時期、クリスマスを迎えるまで多くの宗教曲がコンサートで演奏されます。
言葉は、ただその文字を知ってるだけでは意味をなさず、言葉の意味が大事だと思います。
マニフィカト(マリアの賛歌)の音楽で、「わたしの魂は主をあがめ」とは一体何だろう。グロリアにおける、「地に平和」とは?歌うとき、言葉を口にしたとき、その言葉が音になっているかどうか・・・。
宗教曲の中で、「救い主」という言葉が頻繁に使われます。
一人の人間が人類を救う、なんて聞くと、強い権力を持つ独裁者に従うことを多くの人は想像し、それを肯定するのでしょうか?
人が人を支配し、人が自然をも金儲けのために利用するこの地球上で、本来どうあるべきか自分の頭で考え口に出すことが無意味にも感じるけれど、「私の魂」は権力ある人間を崇め追従することを否定したい。理不尽な人間社会の中で、芸術は常に「私はどう生きるか」を探求し問い続けます。
教会で使われる用語を発し、教会に行くだけで「安心」なら、考えることを止めている状態なのかもしれません。一方、「わたしは無宗教である」と言った時、信仰や宗教から人間は理性で乗り越えられたのだ、という現代人の驕りを感じることがあります。
そうやって考えて行くと、謙虚であることが「平和」なのだと気づきます。
小さな一つのことを知った時、自分がいかに知らないかを知ることになります。
今、サッカーのワールドカップが盛り上がっていますが、スポーツに使われる言葉は、戦争に使われる言葉と同じものが多い気がします。「攻撃」「戦う」「守る」「倒す」「勝つ」「負ける」
戦争をやめてスポーツをしたらいいのに。
2023年には、「平和への祈りプロジェクト」と銘打って一年かけてコンサートをあちこちで企画したいと考えています。
共通の思いで集う教会では今までもやってきた内容ですが、言葉と音楽の繋がりをあえて意識して、ヒルデガルトの歌や教会の礼拝で歌われるコラール、そして様々な民謡、それぞれにつけられた詩(歌詞)を土台にして、全体を1つの流れに編んだプログラムです。それを、一般の社会で、生活の中で、平和をまっすぐ願う音楽の波紋が広がったらいいな、と思います。過去や歴史と向き合い、初めてのことや他の国や文化、違う価値観に気づくことを恐れずに。
人は人を殺したくないし、殺されたくない。だから武器を捨てよう。命あってこそ、隣の人が喜んでくれて、心が温かくなる。
荒れた世界情勢やコロナ禍で分断された人との繋がりが、一人、また一人と繋がっていけますように。疲れた心身が温まり和らぎますように。
年明け、1月に小さな場所から始めます。
2023年1月29日(日)東京・練馬区のギャラリー古藤にて「無伴奏チェロコンサート」。詳細は追ってご案内いたします。