
人は輪の重なり合うところで一緒に活動や仕事する。それ以外ともにいることや、価値観を強要することをしなければ、傷つけることもないのかな、と思うこの頃。たとえ家族でも。
家族の関係性はそれぞれで、価値観を共有できて何でも話せる仲の良い人たちもいれば、お互いを理解し合わないのが当たり前だったり、大事なことは話せないギクシャクした関係、暴力的な関係(これは命の危険に関わる大きな暴力が問題になるけれど、ちょっとした態度や言葉使いにその芽が少なからず存在するのかもしれない・・・)など。
親の考え方から抜け出た子が弱った親を助けるために再び戻った時に再開するストレス。自分自身の嫌な部分の凝縮を毎時見せられているような・・・。
自分の鏡だ、と思うことにしていますが。良いところを見るようにすれば良いのだけれども。
外からは「おかしい」と思うことも、他人様の害にならないなら、非難するほどのことではない。誰かが苦しんでいるなら助ける必要はあるけれど。この先、歳をとって変わることも無し、本人が求めていないのなら、周りが「これは良いよ」とか「こんなことしたら体によくない」と勧めても無駄。
本人が欲する、求める、というのが楽器演奏の上達にも大切な点。
そういう人々は、5年後10年後だいぶ経った後にも頭のどこかに覚えていたり、気づきがあったりするもの。

『主の祈り』は、地球上で人間が他者とともに生きる、生かし合うために不可欠なポイントが簡潔にまとめられていると思います。
そういえば、シモーヌ・ヴェイユが一文ずつ吟味を重ねた文章『「主の祈り」について』を残していました。
「われらに負い目がある者を、われらがゆるすごとく、われらの負い目をもゆるしたまえ」
多くの教会では「罪」という言葉を使いますが。
日常生活で思いやりの無さや、理解のない扱いを受けたり、何気無く使われた言葉遣いに対してなら、少し時間が経てば「ああ、自分もそういうことやっているなあ」と反省します。これしか無いなあ、と思う。
一方、大きな権力を振りかざす暴力的な独裁者をも「許す」とは?!行動ではなく、人でしょうね。
それでも、難しく、重い・・・。
武力に対して同じ武力を持って応えれば、戦争はすぐに始まるでしょう。
暴力に対して「静かにしている」、武器を持つ相手に何も持たずにいる、というのは、「鳴りを潜めて、嵐が過ぎるのを待つ」というのとは違うと思います。
「静かに待っている」のが可能なのは、倫理の土台があってのことだとすれば。
人間の尊厳が地上から消えていく今、繰り返し説明し伝えることも、武装と反対の「静かな」行動でしょう。
戦争は嫌だ、という共通した思いを持つ者同士が、小さな違いによって非難し合うのは平和ではないですね。
あるコミュニティで、「この人には嫌われないようにしよう」という気持ちが働くのは人として対等ではない、隷属的になる小さな芽なのかも。
と、いろいろ反省しつつ、身近な人にうまく感情を抑えられなかったりするのです。
そこで、荒れる心を落ち着かせるために、音楽がなくては生きられない!No music no life!
音楽をすれば、気持ちが和らいで自由な明るい楽しい心持ちになれます。瞑想のようなもの。
今、外はまだ雪に閉ざされていますが、動物たちは春の訪れを身体で感じ取っているみたいです。
静かに変化を感じている。動物たちはエラいなあ・・・
コロナ禍始まり今まで5年の間、生活の変化あり、戦争あり、気候変動が進み、親しい人々のあの世への旅立ちあり・・・
自然の中でそれらを想い、「平和への祈り」として形にまとめる年かなあ、と考えています。
