2025年02月02日

閑話

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人は輪の重なり合うところで一緒に活動や仕事する。それ以外ともにいることや、価値観を強要することをしなければ、傷つけることもないのかな、と思うこの頃。たとえ家族でも。
家族の関係性はそれぞれで、価値観を共有できて何でも話せる仲の良い人たちもいれば、お互いを理解し合わないのが当たり前だったり、大事なことは話せないギクシャクした関係、暴力的な関係(これは命の危険に関わる大きな暴力が問題になるけれど、ちょっとした態度や言葉使いにその芽が少なからず存在するのかもしれない・・・)など。
親の考え方から抜け出た子が弱った親を助けるために再び戻った時に再開するストレス。自分自身の嫌な部分の凝縮を毎時見せられているような・・・。
自分の鏡だ、と思うことにしていますが。良いところを見るようにすれば良いのだけれども。
外からは「おかしい」と思うことも、他人様の害にならないなら、非難するほどのことではない。誰かが苦しんでいるなら助ける必要はあるけれど。この先、歳をとって変わることも無し、本人が求めていないのなら、周りが「これは良いよ」とか「こんなことしたら体によくない」と勧めても無駄。
本人が欲する、求める、というのが楽器演奏の上達にも大切な点。
そういう人々は、5年後10年後だいぶ経った後にも頭のどこかに覚えていたり、気づきがあったりするもの。
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『主の祈り』は、地球上で人間が他者とともに生きる、生かし合うために不可欠なポイントが簡潔にまとめられていると思います。
そういえば、シモーヌ・ヴェイユが一文ずつ吟味を重ねた文章『「主の祈り」について』を残していました。
「われらに負い目がある者を、われらがゆるすごとく、われらの負い目をもゆるしたまえ」
多くの教会では「罪」という言葉を使いますが。
日常生活で思いやりの無さや、理解のない扱いを受けたり、何気無く使われた言葉遣いに対してなら、少し時間が経てば「ああ、自分もそういうことやっているなあ」と反省します。これしか無いなあ、と思う。
一方、大きな権力を振りかざす暴力的な独裁者をも「許す」とは?!行動ではなく、人でしょうね。
それでも、難しく、重い・・・。

武力に対して同じ武力を持って応えれば、戦争はすぐに始まるでしょう。
暴力に対して「静かにしている」、武器を持つ相手に何も持たずにいる、というのは、「鳴りを潜めて、嵐が過ぎるのを待つ」というのとは違うと思います。
「静かに待っている」のが可能なのは、倫理の土台があってのことだとすれば。
人間の尊厳が地上から消えていく今、繰り返し説明し伝えることも、武装と反対の「静かな」行動でしょう。

戦争は嫌だ、という共通した思いを持つ者同士が、小さな違いによって非難し合うのは平和ではないですね。
あるコミュニティで、「この人には嫌われないようにしよう」という気持ちが働くのは人として対等ではない、隷属的になる小さな芽なのかも。

と、いろいろ反省しつつ、身近な人にうまく感情を抑えられなかったりするのです。
そこで、荒れる心を落ち着かせるために、音楽がなくては生きられない!No music no life!
音楽をすれば、気持ちが和らいで自由な明るい楽しい心持ちになれます。瞑想のようなもの。

今、外はまだ雪に閉ざされていますが、動物たちは春の訪れを身体で感じ取っているみたいです。
静かに変化を感じている。動物たちはエラいなあ・・・

コロナ禍始まり今まで5年の間、生活の変化あり、戦争あり、気候変動が進み、親しい人々のあの世への旅立ちあり・・・
自然の中でそれらを想い、「平和への祈り」として形にまとめる年かなあ、と考えています。
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posted by makkida at 20:07| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする

2024年07月05日

おはなしコンサートあれこれ

蒸し暑い日が続きます。あちこち大雨で倒木も多いようです。地震の被災地のご苦労ご不便、いかばかりかと心痛みます。
物価が上がり、生活費の切り盛りで精一杯な中、コンサートに行く余裕のない方もたくさんおられるでしょう。
仕事なのに仕事になってない(経済が回ってない)音楽家の生き方は、若い方々に全く説得力がありません。が、本質を求めて、自主企画で「お仕事」でない活動を継続するからこそ可能なこともあります。
なんといっても、音楽を愛し、夢中になって一緒にアンサンブルしてくださる音楽家や、そのような演奏を楽しんでくださるファンの方々に恵まれて、感謝です。

熊出没注意の地域に住みながら、地球の温暖化、世界の国々の右傾化も、都知事選選挙も気になります。戦争している場合じゃありません!
そして音楽家も生活しなければなりません。

恐らく、コンサートの入場料金を支払う余裕のない人にとって、1000円(家族連れで出かける場合もっと!)でも、たいへんでしょう。
東京で大企業に勤める夫婦でも、子どもが大学に入るまでは、学費や月々の進学塾にかかる費用を稼ぐだけで精一杯という。
文化芸術を生活の中で楽しんだり経験したり味わったりする自由は誰にでもあるはずなのに。
ワンコインや無料であれば、たくさんコンサートに行けるという人もあるでしょう、もちろん。
格安コンサートが成り立つのは予算のある主催者がいるから。
度々値上げする会場費、広告宣伝費(秋から郵便の料金値上げなんて痛すぎる!)、研究費、楽器のメンテナンス費、交通費…値上げするこれら経費に対して、何十年も値上げしてない(!)演奏料でも…共演者が多ければ入場料3000円台でも成り立ちません。

自主企画というのが経済的には仕事にならないのだとすれば、自分のやりたい内容を追求すればいい。 周りの人やお客様に「こんなに面白いんだよ。こんなに素晴らしい音楽なんだよ」と説明し、一緒に喜んで貰い、楽しんで貰う。自分の理解が深まれば深まる(身体の深いところで味わえる)ほど、それが音に表れるのでしょう。身体の無駄な力が抜けて、自然に音が出てくるようになる。
目に見えない、説明できない音楽。

どの時代でも、音楽家は明日のご飯の心配をし、葛藤しながら、でも夢中になって音楽をしてきたのだろうと思います。

たった1分の短い曲のために、どれだけ時間かけて、あっちひっくり返し、こっち広げ、自筆譜、欧文論文、調べて読んで、そして練習、奏法の試行錯誤…(笑)
やらずにはいられない。
この過程が楽しい。
というような作品を集めた「おはなしコンサート」です。
ぜひお越しください!お待ちしております。

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2024年05月05日

目の前にいる人のための言葉

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長野県の北部、信濃町ではこれから夏に向かって様々な野菜が作られます。特産物の一つ、ルバーブがあります。
1920〜30年代にカナダからの宣教師アルフレッド・ストーンさんが長野で宣教活動をされました。農村生まれのストーンさんが、ルバーブやトウモロコシの栽培を教えたのが始まりです。野尻湖畔にはA.R.ストーン先生の記念碑があります。日米の戦争が始まってカナダに帰国しましたが、戦後に日本に戻って来られ、農村伝道神学校の設立にも関わり、54年に青函連絡船の洞爺丸に乗船し遭難されました。
信濃町にあるプロテスタントの信濃村教会では、代々、農村伝道神学校出身の牧師が赴任し、夏だけでなく年間通してしばしば青山学院の北米からの宣教師が礼拝での説教に来られ刺激を与えてくださいます。5月の連休や夏には、黒姫や野尻の別荘地や国際村(NLA)の住人が集まり、国際色も豊かです。

昨年から牧師を務められているのは東北(前任地)から来られた三河豊先生。私は礼拝にはひと月かふた月に一回くらいしか参加できませんが、毎回印象深いお話に感銘を受けています。
ほとんどの牧師さんは礼拝に説教の原稿を用意しておられます。その場で会衆の顔を見てアドリブを入れる方もいますが。
三河さんはいつも恥ずかしそうに俯き加減で、でもニコニコと、静かに丁寧に言葉を選びながら、決して大きな声は出されません。お話がとてもよかったとお伝えしても、ニコニコ控えめにお返事されるだけ。土に触れるためか、大きな手をお持ちですが、その手を持ち上げて祝祷をされるときにも、大いなる存在が身体を動かしている様な自然さで、飾らず「ありのまま」。

今日は一番前に座ったので気づいたのですが、俯いた先生の視線の先は床や本で、原稿を読んでいる様子が全くない。
礼拝後に、原稿はないのですか、と尋ねたところ、やはり、原稿は書いていない、とのこと。
集まった人々の顔ぶれを見て話をしているとも。
原稿を書いていた時期もあったけれど(教会員に配布するため)、なんと、事前に自分で話をしてそれを録音し、文字起こししたとのこと!それに4時間かかるので、原稿を作るのはやめたそう。
新共同訳と聖書教会共同訳、タガログ語、ギリシャ語など4つの聖書、それから「礼拝と音楽」4冊を読むことを毎週課している。会衆に合わせて話を選んでいるため、話したことの4倍は勉強しているんですよ、とおっしゃる。
そして毎日読んでおられるという、ドイツ語のDie Losungen(日々の聖句)、赤や青の線が引かれ、几帳面に鉛筆で書き込みされた本を見せてくださいました。それから、ペンケースから小さめの定規を取り出してニコニコ。
説教では旧約新約のあちこちから引用をされるのですが、その日のテーマに関する聖書は頭に入っているので、引用箇所が次々に流暢に出てくる。でも、聴き手が聖書のページをめくるのを待っていてくれる、その余裕。

周りに振り回されることなく、コツコツと自分の仕事をやり続ける使命感、そして、楽しそうに!
こうしなければならないというシステムがない仕事には、自分の納得のいく勉強の仕方、考え方の自由がそれぞれの人に与えられている。「普通はどうする」「普通」なんてものは無い。

プログラムを何種類も用意してお客さんの顔ぶれを見て弾く曲をその場で決める、というのは、大きなリサイタルやアンサンブルやオーケストラのコンサートでは難しい(ジャズや民族音楽では当たり前でも)・・・。
私の企画「おはなしコンサート」で参考にできるのではないかと、内容を見直すヒントを頂きました。「おはなしコンサート」など小規模な企画を月一回どこかで開催したいと考えていますが、とりあえず夏までに一回企画できるかな。楽しみです!

posted by makkida at 22:57| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする

2024年03月06日

3月関西でのコンサート

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長野県北部はまだ雪が降る毎日です。
能登半島の被災地の被災された方々や復旧活動をしている方々は疲れも溜まって、体調不良や怪我も増えるだろうと心配です。
災害のたびに電気やガス、水道が使えなくなる困難を目の当たりにします。衛生面が整うことは健康のためだけでなく、生活の質も上げます。トイレがないことは誰にとっても困ります。原子力発電によって出る廃棄物も土に戻せないことは誰もが知っています。自然界に戻らない物で作られた製品は残念ながら多くあり、海に流されてゴミが溜まり、見えない物質によってサンゴが死んでしまいます。人間が自然界の自浄作用能力を超える汚染をしていることは何年も前から分かっています。だから、地球の各地で起こっている戦争をすぐにやめて欲しい。

辺境に住むようになって、近隣の市との気候や地形、農産物、人の気質の違いを感じます。新幹線で都心から1時間で移動できるようになったけれど、風土の違い、というのは簡単に分からないでしょう。
都会から離れた場所、国のさかい、狭間・・・もっと広げて考えれば、価値観や常識や性別などの区別の狭間にある人々。
辺鄙な場所で閉ざされて、物事が沈殿して思考が動かなければ、人は苦しくなる。けれど人や文化の風通しのよい交流があれば、自然の音を聴きながら心落ち着いて豊かに創造的な暮らしができるだろうと思います。
仕事のために東京や関西を往復する生活を数年続けて、有難いことに出会いによる活動も増えつつあります。大量の荷物とともに車での往復は疲労がたまり、移動日の前後は準備と片付けに追われ、長野の滞在が短すぎて落ち着いて練習や勉強時間を取れないのが悩み。居住地で自分の専門分野での稼ぐ仕事は作れませんが、辺境で創造的な仕事、創作活動はできないものか、と考えています。
辺境の豊かさは芸術にも見られるだろうと思います。
例えば、バルトークやコダーイがハンガリー民謡を採集したのは当時の国境を超えて、長年人々が暮らしを続けてきた農村でした。特に、国と国の狭間、国境が時代によって移り変わる場所は、民謡の宝庫でした。現在ルーマニアであるトランシルヴァニア地方、現在ウクライナ西南部、現在スロヴァキアの南部、現在クロアチアの北部など。
大きな権力を持つ国や人が、豊かで独自の文化を持つ小さな集まりを潰さない世界になりますように。

東日本大震災での原発事故によって避難生活を続けざるを得なくなった福島の人、子どもたちを支援する人々が様々な活動を続けています。その団体の活動に賛同し支援のための寄付を送るために、毎年開催しているチャリティコンサート「ミホプロジェクト祈りのコンサート ひまわりの丘 福島の子どもたちとともに」 。今年は3月9日に大阪、11日に滋賀で開催します。11日の滋賀公演はおかげさまで完売しました。9日の大阪公演はまだまだ余裕がありますので、よろしければぜひお越しください。
3月9日(土)15:00開演 小西望牧師よりメッセージ/黙祷/80分のコンサート
場所:日本キリスト教団 天満教会 大阪市北区天神西町4-15
[東西線「大阪天満宮駅」5分 堺筋線・谷町千「南森町駅」5分]
全席自由:前売2,500円/当日3,000円/学生2,000円/小学生以下無料
詳細はこちら
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3月17日(日)京都のアイガット・サロンにて無伴奏コンサートです。
今回はバロックとモダンの調整の楽器を使います。もちろん、両方にヒストリカルガット弦を張っています。変則調弦によるJ.S.バッハの無伴奏組曲第5番、久しぶりにコダーイの無伴奏ソナタから1楽章、そして18,19世紀のチェリストたちが作曲したカプリス(カプリッチョ)を演奏します。
よろしければ、ぜひお越しください!お待ちしております!
2024年3月17日(日)
富田牧子 無伴奏チェロコンサート
〜ガット弦を張ったバロックとモダンの楽器を使って
2回公演 各回定員15名
【時間】14:00 (13:30開場)/17:00 (16:30開場)
【場所】アイガットサロン[京都市北区小山北上総町40-2 3F]
【プログラム】
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲 第5番 ハ短調 BWV 1011
L.タリエッティ、ダッラーバコ、ピアッティ のカプリス
Z.コダーイの無伴奏チェロソナタより第1楽章
【料金】一般3,900円/学生3,000円
【ご予約】アイガットサロンkishida@kyoto-advisory.co.jp
📞090-7359-4585
◆◆◆20240317富田牧子無伴奏バッハチェロ組曲 コンサート.jpg
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2022年12月09日

クリスマスの音楽をチェロで

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クリスマスにいかが?1ポジションで弾けます。”in dulci jubilo 甘き喜びのうちに”
今年はクリスマスのソロコンサートはなくて残念。。。
posted by makkida at 01:17| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする

2022年12月04日

アドヴェント、平和を待ち望むとき

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あとひと月で2022年が終わろうとしているのに、ウクライナでの戦争は終わらず、世界中で自国を防ぐため武装する方へ向かっています。
戦争は始まったらなかなか終われない、終わらない。政治家もどんな宗教も戦争をやめさせることはできない。誰が始め、誰が続けている戦争か。
戦って命を落としているのは最前線の兵士たち、破壊されるのは人々の生活、傷つけられるのは人々、家、田畑、家畜、学校、店、工場、人の心。子どもや学生はコロナ禍で、学ぶ場だけでなく様々な行事を奪われてきたのに、戦争によってさらに貴重な機会を失います。
今、地球の最大の課題になっている環境破壊に、もっとも貢献している戦争。それを引き起こすのは私たち人間。人間の歴史が始まって、ずっと繰り返されてきた人の暴力、国と国の戦争。
人間の愚かさへの反省から、命の尊さ、生かされることへの感謝から芸術や文学が生まれ、また戦争が繰り返され・・・。
武力ありき、では地上に平和は訪れないでしょうに。

西洋音楽はキリスト教と切っても切り離せない繋がりを持っています。
今、待降節(アドヴェント)の時期、クリスマスを迎えるまで多くの宗教曲がコンサートで演奏されます。
言葉は、ただその文字を知ってるだけでは意味をなさず、言葉の意味が大事だと思います。
マニフィカト(マリアの賛歌)の音楽で、「わたしの魂は主をあがめ」とは一体何だろう。グロリアにおける、「地に平和」とは?歌うとき、言葉を口にしたとき、その言葉が音になっているかどうか・・・。
宗教曲の中で、「救い主」という言葉が頻繁に使われます。
一人の人間が人類を救う、なんて聞くと、強い権力を持つ独裁者に従うことを多くの人は想像し、それを肯定するのでしょうか?
人が人を支配し、人が自然をも金儲けのために利用するこの地球上で、本来どうあるべきか自分の頭で考え口に出すことが無意味にも感じるけれど、「私の魂」は権力ある人間を崇め追従することを否定したい。理不尽な人間社会の中で、芸術は常に「私はどう生きるか」を探求し問い続けます。
教会で使われる用語を発し、教会に行くだけで「安心」なら、考えることを止めている状態なのかもしれません。一方、「わたしは無宗教である」と言った時、信仰や宗教から人間は理性で乗り越えられたのだ、という現代人の驕りを感じることがあります。
そうやって考えて行くと、謙虚であることが「平和」なのだと気づきます。
小さな一つのことを知った時、自分がいかに知らないかを知ることになります。

今、サッカーのワールドカップが盛り上がっていますが、スポーツに使われる言葉は、戦争に使われる言葉と同じものが多い気がします。「攻撃」「戦う」「守る」「倒す」「勝つ」「負ける」
戦争をやめてスポーツをしたらいいのに。

2023年には、「平和への祈りプロジェクト」と銘打って一年かけてコンサートをあちこちで企画したいと考えています。
共通の思いで集う教会では今までもやってきた内容ですが、言葉と音楽の繋がりをあえて意識して、ヒルデガルトの歌や教会の礼拝で歌われるコラール、そして様々な民謡、それぞれにつけられた詩(歌詞)を土台にして、全体を1つの流れに編んだプログラムです。それを、一般の社会で、生活の中で、平和をまっすぐ願う音楽の波紋が広がったらいいな、と思います。過去や歴史と向き合い、初めてのことや他の国や文化、違う価値観に気づくことを恐れずに。
人は人を殺したくないし、殺されたくない。だから武器を捨てよう。命あってこそ、隣の人が喜んでくれて、心が温かくなる。
荒れた世界情勢やコロナ禍で分断された人との繋がりが、一人、また一人と繋がっていけますように。疲れた心身が温まり和らぎますように。
年明け、1月に小さな場所から始めます。
2023年1月29日(日)東京・練馬区のギャラリー古藤にて「無伴奏チェロコンサート」。詳細は追ってご案内いたします。


posted by makkida at 23:54| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする

2022年10月31日

旅するチェリストより

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移動して戻ってくるたびに秋が深まっています。朝目覚めて、一瞬、何処にいるのかと思う。安全に無事に移動ができ、行く先々でいい交流ができることに感謝。
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今朝の黒姫山
10月初めには千葉の土気あすみが丘教会にて「世界の平和を祈る」チャペルコンサートに出演。会員のみなさまからもったいないほどの歓待を受け、音楽に集中できました。プログラムは悩み抜いた結果、腑に落ちる形になり、関牧師の開会のご挨拶の言葉にもピッタリと共鳴しました。
当日のプログラムはこちら。20221008土気あすみが丘教会コンサートプログラム.pdf
先週は京都から戻って、松本を3往復。内容の濃いヨハネ受難曲の次は、明日からメサイア。素晴らしい音楽が続きます。

He was despised and rejected,
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」(イザヤ書53:3)
彼は「打とうとする者には背中をまかせ、髭を抜こうとする者には頰をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。」(50:6)
「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」
「わたしたちは羊の群れのように迷い、それぞれ己れの道に向かっていった。」(53:4−6)
キリストの受難は、ピラトが恐れた「わたしたち」民衆(の暴走と無知(無視))によるもの(司法が本来恐れるべきものは人間の権力者ではないのに)。
「わたしの正しさを認めてくれる方は近くにいます。
誰がわたしとともに争ってくれるのか われわれはともに立とう。」(50:8)
独裁から、武器や言葉の暴力から、人権侵害、迫害を受けている人びとの、深い淵からの叫び。

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背丈が高い木々の多い森で、貴重な日当たりのよい場所の紅葉
そのあとは、いよいよ、チェロデュオコンサート。みなさまのお越しをお待ちしています!
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ツルリンドウ
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posted by makkida at 21:27| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする

2022年09月07日

空、空想

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大きな台風の影響で風が強かった一日。
今年の夏は湿度が高かったので、家の中や、押し入れや棚に仕舞い込んだものがカビています。太陽の力と強風のおかげで、外は久しぶりに60パーセントまで乾燥(ここは周りが木に囲まれた場所。街ではないので)。あちこちから引っ張り出して、干したり、洗ったり。
頭の中では、次の本番のプログラムや計画すらない将来のプログラムのことを考えたり。
バロックとモダンを使ったソロリサイタルは、会場を探していないので今後の計画はないですが、ウクライナの作曲家シルヴェストロフを取り上げたい。
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立派なコンサートホールより、ヨーロッパの古い石造りの教会で毎月弾けたら、どんなに素晴らしいだろう!
バロックとモダンの楽器を使ったプログラム。バロックのアンサンブル。
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フォルテピアノとのベートーヴェンの室内楽。ガット弦のアンサンブルとバロックからハイドン、ベートーヴェンまでのコンチェルト。
歴史的ピアノとブラームス、そしてショパンのソナタ・・・。
空想ばかり。
空の空。
シューマンも弾きたいなあ。いつでもフォルテピアノとアンサンブルできる環境に身を置きたい。
posted by makkida at 01:33| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする

2022年03月31日

バルトークによるウクライナの民謡収集

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20世紀の初め、ハンガリーの民俗音楽を収集し科学的に研究したコダーイ・ゾルターンとバルトーク・ベーラは、1905年にグルーバー・エンマ夫人(のちのコダーイ夫人)のサロンで知り合います。彼らはハンガリー各地に民謡収集旅行に出かけ、農民が歌う村の古い歌を採譜、録音しました。
バルトークが収集した民謡には、ハンガリーだけでなく、スロヴァキア、ルーマニア、ウクライナ(ルテニア)のものがあります。当時のオーストリア=ハンガリー帝国のハンガリー王国の領土は現在よりも広かったので、国内のスロヴァキア系、ルーマニア系、ウクライナ系の人々の住む地域で調査し、それらの言語で歌われている民謡を集めたというわけです。
バルトークが訪れた北東ハンガリー(当時)のウゴチャ県、べレグ県、マーラマロシュ県は、カルパティア・ルテニアと呼ばれた現ウクライナのザカルパッチャ州(ウクライナ名:ザカルパーツィカ・オーブラスチ)の一部。カルパティア山脈の南西部、トランスカルパティア低地と呼ばれる地域です。1911年に彼は初めてウゴチャ県の首都ナジセーレーシュ(ウクライナ名:ヴィノフラージウ)に収集旅行しました。
彼の『2つのヴァイオリンのための44のデュオ』はハンガリー、スロヴァキア、ルーマニア、ブルガリア、ルテニア、アラブの音楽(民謡)を使った曲集です。一曲は1分から数分までの短いものばかりだが、濃いエッセンスが詰まった、魅力的で楽しい音楽です。その中の第10、16、23、24曲がルテニアの民謡です。第35曲は「ルテニアのコロメイカ」という舞曲のスタイルですが、これはバルトークのオリジナル作品。コロメイカは二拍子の速い踊りで、今でも祭りや結婚パーティで踊られています。
第10曲はマーラマロシュ県ドルハ(現ウクライナのDovhe)、
第16曲は同じくマーラマロシュ県のサールドボシュ(現ウクライナのSteblivka)、
第23曲と24曲はウゴチャ県ヴェレシュマルト(現ルーマニア・トランシルヴァニアのシビウ県ロシアRoşia)、
4曲とも1911年に収集されたもの。

ヨーロッパ(に限りませんが)では権力者が少しでも領土を広げようと、戦争ばかりしてきました。大陸にある国は、国境が時代によって変わります。国境近くの地域はその時々で使う言語を強制的に変えられたところもあります。
土地に住み続けていた人々は、風土にあった生活をし、それぞれの言葉を話し、彼らの言語による歌を歌い、楽器を作って演奏し、それに合わせてダンスを踊ってきました。国境線は後から引いたものです。人が動き、交流し、民族が混ざり、互いに影響し合うことで新たな文化も生まれます。世界中を移動できる現代に、様々な言葉を話す様々な出身の人々がお互いの命と仕事を尊重して、創造的な人間として生きる可能性があるはず。地球が存続するための希望になるのでは?世界中の音楽を楽しむことができるのと同じように、一つの国の中に様々な民族がいることは宝なのだから。
長い年月をかけて伝え続け、コツコツと作り上げてきた生活、文化、芸術、風習、建造物。
戦争は誰かの大切な命や物を破壊します。魂を破壊します。
人権や環境問題を語っていても、核や爆弾による破壊で全てが無になります。
NO WAR. NO MORE WAR.
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posted by makkida at 18:46| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする

2021年11月06日

毎朝、新しく

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最近よく虹がかかる黒姫。今日のは気づかないくらい微かだけれど、右端に。
強風が続き、木の葉がだいぶ落ち、冬も間近。落ち着いて野尻にいられたらいいのに・・・天から見ると、人間はあっちこっち慌ただしく乗り物で動いて、疲れて、おかしいね。でも、誰かが動かないと回っていかない。ちょっと頑張って動くことで、人がやらないことをやってみることで、新しい発見や気づきや、体の奥底から生まれる幸せな気持ちが生まれる。
動きながら考える。落ち着いて考える。歩きながら考える。
どれも無駄ではない。
落ち着かなければ音は聴こえてこない。練習のためには、呼吸が浅くなっていてはダメ。
動いたり、落ち着いたり、のバランス。

朝起きて外に出て毎日違う空気を吸って、今日も新しく一日が始まる。身体の中から小さな喜びがわき起こる。身体の状態も毎朝違う。呼吸や身体を整えたり。楽器にはすぐに向かえないが、身体を準備しながらイメージする。チェロを弾き始めてから今まで、何も考えずに弾ける時期なんてなかったから、こういうことは当たり前。
久しぶりに野尻に帰って来た友人と話したり、初めて会った人と話したり、自然の中ではそのままでいられる。話題は荒れた森のことになる。
痛んだ木を鋸で倒した。チェーンソー持っていれば便利だろうけど、講習受けないといけないし、自分で大したことはできない。
石油の値段が高いし、地球のこと考えると燃料として灯油を使い続けるのは悩ましい。薪ストーブなら燃料はそこいらにあるけれど。
地球の資源は全ての人間(使わせてもらっている)、全ての生き物のものであり、特定の誰かや国の既得権益や政治や経済の都合で決められては困るのだが!KIMG2795.JPG
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2021年10月26日

よしあし、答えのない

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コケの小宇宙。生き物それぞれの大きさの世界があり、全体で大きな宇宙になる。

体や心が元気で自由に動き回れるときにはポジティブになれるし、日常の様々な仕事もいろいろな出来事にも自分の可能な限りなんでもできる気になる。
自分が自由に動けなくなって、やっと、世の中の仕組みが動ける人前提で成り立っていることに気づく。日頃、頭で理解しているつもりが、やはり身体が経験することで行動しづらいことが現実味を帯びる。
人の仕事ぶりを自分の視点から見て(それが多くの人にとって優しくなるよう気を遣った、いい社会のためだと客観的に考えたとしても)、センスの良し悪しを口にすることは良くないことだなあ、と思う。
「センスいい」という言い方。ついしてしまうが、気になる。センス、と気軽に使うけれど、何のことだろう。他の言葉で置き換えられるなら、別の言い方をしたほうがいい。これも「センス」か。とすると、センスは知性、脳を使うことが必要。別の視点から見ることも必要。
いつも見ている「山」を別の角度から見ることはなかなかない。違う方向から見ると別の山みたいで驚く。それほど、あるものについて私は知らない。理解していない。
趣味や感覚。「いい趣味」は王や権力者の「趣味」だった時代。フランス革命以降、人類が手にした「自由」「平等」は、人それぞれが能力や身分や人種と関係なく活動できる、ということだろう。
その人の生き方がその人の仕事なり作品として表に出るのだから、うまくできなくてもしょうがない。そもそも、プロだから「センス良く」全てお任せできるのではなく、趣味や感覚はそれぞれが違うはず。

いや、多くの場合、理想はあったとしても、身体が追いつかないことだらけだ。
自分にアイデアがあり、こうしたい、こうできるはず、と考えるから、人に頼まず「私がやる」と引き受ける。自分が関わること全てそうなる。結果、出来上がるのがギリギリになって周りの人が心配する。間に合うから仕事にはなっているが、いつも「大変そう」。忙しそうで大変ね、と言われるのは、いろんな意味があるのだろうね。「辛そう」「大変そう」に思われずに、「感じ良く」(これもまた何だ?)仕事ができれば、周りの人に嫌な気持ちを与えないのに・・・。
人にわかってもらえないから辛いのかな?
天は全てを見ている。

気づかない人は多いけれど、言わなくても気づく人もいる。何に気づくかも人それぞれだ。
気づいてもらうのを待っているのではなく、助けを求めたいときには口に出して伝えないといけない。
でも、あまり日々の生活が大変だと、助けを求める暇もない、お金もない。どうにもならない悪循環で毎日が回る。
どんなやり方がいいか答えはない。小石を拾うように、気づいた人が気づいたときに小さな助けをできたらいい。

しばらく私の自主企画によるコンサートはできない状況になりました。コンサートを開催するには、練習や勉強時間を確保する以外に、演奏家が動かなければならない仕事がたくさんあります。以前から可能な事務仕事や広告宣伝は自分で行ってきましたが、コロナ禍始まって以降、経費削減のために自分で負担する作業が増えました。事務仕事全般お客様対応などのマネジメント的な仕事は気を遣います。マネジメント業務をしてくださる方や場所提供をしてくださる方との共同作業でないと、主催公演は難しい状況です(普段からそうですが)。家族の身体の具合を見ながら、どのように長野と東京を往復して生活するか模索しながら活動を続けます。このタイミングで、あちこちから少しずつ仕事のお話をいただけるのが、本当に有り難いです。
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2021年10月07日

不思議

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97歳まで一人暮らしをしていた祖母。心臓が弱くなり入院、息を引き取り納骨まで2週間。あっという間に9月が過ぎ去ってしまった。
この間、不思議な力に動かされているようだった。
私がちょうど東京にいる間に祖母の具合が悪くなり、救急車で運ばれるのを付き合うことができた。翌日には回復の見込みがないことを知らされ、苦しさを取り除くための処置が施されて、家族の見舞いが許された。その日のうちに、外出がしづらくなっている母を車で連れて行き、頭がはっきりしている祖母といつものような会話ができた。目を開き、会話ができたのはこの日だけだったらしい。でも、近い家族はみんな、病院にいる祖母を見舞うことができた。
週末に松本で予定されていた私の地域の小さなコンサートも、波田教会での義母のリードオルガンの練習も無事終え、東京に帰った数時間後に祖母は息を引き取った。
大事な家族みんなを待っていてくれた。

見送りは家族のみ、自宅で行った。
祖母はクリスチャンではなかったが、遺言ノートに残された指示では、讃美歌「いつくしみ深き」「はるかにあおぎ見る」を私にチェロで弾いてほしい、というのが希望だった。祖母が10代前半に経験したクリスチャンの家族の葬儀で、初めて歌った讃美歌が「いつくしみ深き」だった。一回きり歌った古い歌詞を晩年も鮮明に覚えていた。もう一曲はどうやって思い出したのか、もう聞くこともできない。
仏壇と線香のある形だけ仏式のお別れの中で、家族みんなで讃美歌を歌った。
キリスト教には縁がないと思っていた叔母たちが、高校生以来だと懐かしがった。聞くと、ミッション系の学校で聖歌隊に入っていたという。私の両親も、幼い頃に教会学校に通っていた記憶がよみがえった(私は初めて知る事実)。最近、私の母は具合が良くなく、椅子から立ち上がるにも助けがいるのだが、歌った後に一人ですっと立ち上がったのには驚いた。歌うことは身体にいい。
讃美歌が隠されていた昔の思い出を呼び起こす不思議。

納骨の日は台風一過の晴天。これも不思議。

晩年の祖母は膝の痛みがひどく一人で外に出られない日々だったが、家の中はいつでも綺麗に整頓され、デイサービスにも出かけず、週1回の訪問医とヘルパーの助けで、彼女らしい生き方を全うした。自分の葬儀の仕方やお墓のこと、死後の事務処理までも詳細を子ども達に言い残していた。社会的には地位もないただの主婦だった祖母が、最期まで愛情を持って大切にした丁寧な生活。
第2次大戦末期、鹿児島空襲で焼け出され、戦後の貧困を経験し、戦争はこりごりだと言い続けていた祖母の願う平和を、この地味なお別れで深く感じた。

一息ついて戻った野尻は、すっかり秋の空気、黒姫も妙高も色が変わりつつある。
これから母の病と付き合う道はどんなだろうか・・・これも一人の人生。KIMG2716.JPG
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2021年09月06日

10月2日おはなしコンサート延期のお知らせ

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10月2日に開催予定の「おはなしコンサート”イタリア!イタリア!その2」について。
8月から続く長野県内での感染拡大の中、開催できるかどうかずっと考え迷ってきましたが、よく検討した結果、残念ですが今回の公演は3月以降に延期することにいたしました。

広い空間を持たない練習室で今の状況で開催するにあたって、
ホール側から指示されている感染対策に余裕を持って対処するために十分な数のスタッフを集められないこと。
何かあった時にお客様にご迷惑をおかけし、スタッフにも多大な負担を与えることなる、
という観点から判断しました。
現時点で無理に決行せず、関わってくださる皆さんがゆったりした気持ちで楽しんでいただけるように、状況が落ち着くまで静かに待ちたいと思います。

すぐにお申し込みのご連絡をくださったお客様、どうもありがとうございました。本当に心強く、励まされました。

延期公演が決まりましたら、またご案内いたします。
今後も皆様の貴重なご意見ご感想を伺うのを楽しみに、企画をしていきたいと思います。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

富田牧子
posted by makkida at 09:48| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする

2021年08月12日

日常の中で気づくこと、言葉

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梅雨の時期が戻ってきたように雨の日が続く。
演奏活動が自由にできないので、サボっているような焦りを感じる。
自分を励ますために、毎日やった細々とした仕事を日記に書き出す。家事でもなんでも。
それから・・・
毎日少しずつ英文資料を訳しながら読む。
early music sources .comの動画を少しずつ見る。これを主宰して動画の中で話をしている音楽家/学者(ルネサンス、バロック音楽専門)Elam Rotem氏は明晰で、とても感じがいいので、見ていて楽しい気分になる。そしてとても丁寧に作られているので、ストレスがない。彼のチェンバロ伴奏が、これまた素晴らしい!Luzzasco Luzzaschiの声楽曲Aura soaveを女性歌手と演奏している動画が出ているので、ぜひご覧あれ。言葉と音楽を理解した上で、心を込めて歌手に寄り添い、同じ音楽を感じ、共鳴し、一緒に歌っている。自然体で、音楽をする喜び、愛が伝わってくる。理想的なアンサンブル!

最近読み始めた本、L-P.サルトルの「ユダヤ人」。いつか読もうと本棚に入れてあったもの。
理論と文章の構築と言葉の選び方によって、頭の中にある疑問や感じていること、断片的な言葉が繋がり出す。この中のフランスを日本に置き換えるとさらに納得する。ユダヤ人だけでなく、他の人種や性的マイノリティに対する差別。自分の中にある差別に気づかされる。
「反ユダヤ主義は、自己の自由な、そして総括的な選択の結果であり、単に、ユダヤ人に対してだけでなく、人類全体に対して、歴史と社会に対して、その人のとる一つの綜合的な態度である。」L-P.サルトル「ユダヤ人」(安堂信也訳・岩波新書)より
自由に自ら選んでいる・・・!
哲学者が一般に使われる言葉を使って展開してくれると、頭に入ってくる。
メディアやSNSで次々に発信されるニュースや社会問題によって、心がざわめき、頭の中が不満と文句だらけになり、鬱々するので、こういう時に哲学者の文章に触れて頭(気持ち)を落ち着かせる必要がある。
「思慮のある人は、苦しみながら探求する。自分の推論が、多分正しいというだけで、いつ、他の考え方が、それに疑惑をもたらすかも知れないということをよく承知している。自分がどこへ辿りつけるかは、決してはっきりと知ることがない。彼は「開いた」考え方を持っているのである。よそ目には、ためらってばかりいる人に見えるかも知れないのである。」L-P.サルトル「ユダヤ人」(安堂信也訳・岩波新書)より
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2021年08月05日

「束」に対する個人

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8月は特に、過去の戦争を思い出す月です。今こうしている間にも、地球上に紛争状態にある国はあり、思い、考える機会はいつでもあります。この猛暑に追体験するのは、肌身で感覚を得やすいのではないかと思います。
コロナ禍が「戦争状態だ」と言う人もいます。または、戦時中の状況と似ている、そんな「気分」で当時よく使われた言葉を使うことを恐れます。根本的に違うのに、一部似ているからと、その言葉として発した時に、自らや周りの人をその状態にしてしまう怖さ。今持っている自らの自由を手放してしまうことに繋がるのでは・・・。
私は家ですぐ手にできるところに「日本国憲法」の小さな本を置いています。
序文、2章、3章に目を通すと、全て(世界中)の人が個人として尊重される存在だ、という重い意味にハッと目が覚めます。第二次大戦中に大事にされなかったことが書かれている。個人の権利は自分勝手ではないことは、憲法をよく読めば解ります。むしろ、個人と公共、社会、国の関係は他人任せではなく考え続けることなのだろうと思います。
国家が戦争をする時、国民を「束」として扱います。
オリンピックは国と国の戦いに簡単に置き換えられやすいように感じます。中継の時に使う言葉に違和感を抱くのです。アスリート個人の背景や努力や楽しみや喜び、彼らの人生を尊重せず、勝ち負けが国の評価になってしまう。
言葉は一人歩きするわけでなく、発した人の中から出てくるもので、その人(組織)の考え方でもあります。理想を持つことや、理念の共有は大事なのでしょう。

以前も書いたかもしれませんが、私は小学生のある夏に「はだしのゲン」の実写版映画を観て、ものすごくショックを受け、爆弾が落ちるとこんな悲惨な状態になってしまうのかと想像して恐ろしくてたまらず、一夏ご飯が喉を通りませんでした。
武器を使った戦争は最大の暴力で、地球破壊だ・・・。
戦争中(前から)にユダヤ人が、朝鮮半島や中国その他東南アジアの人々が受けた現実は、戦争でない状況でも根っこが残っています。差別は戦争の種です。
自分は権力側の人間だから安全、という発想は簡単に陥りやすい。恐ろしいことです。自らが個人として偏見や差別に加担せずに行動する、ということを実行するのは本当に厳しく難しいけれど、「束」になって安心しない、「不断の努力」なのでしょう。
posted by makkida at 12:43| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする

足搔く

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音楽に関わっていない時間が多くて恐ろしくなってくる・・・。
頭の中ではずっと音楽のことを考えているから、余計に。

窓掃除をしながら思う。集合住宅は何かと便利。窓掃除も。ここでは、まず脚立を地面に安定させてから、脚立に昇って、バケツの水を抱えて掃除。
都会では2、3日留守にしても大したことないけど、ここでは、虫の多い季節は掃除機を頻繁に動かさないといけない。
湿度が高い土地なので家がカビやすく、いつでも扇風機回して風通し、除湿機運転させ、晴れている日には色々なものを日に干して、外の草刈りも定期的に。なんてことを毎日やっていると、それだけで1日が過ぎる。
練習が後回しになって・・・ああ、何やっているんだ!
音楽の仕事がしたい!一番身体が動く、演奏できるエネルギーのある時期に、弾く仕事がないまま何年も過ぎてゆくなんて・・・。
自分で企画制作する本番を続けていても収益が上がらないのは、コロナ禍に始まったことではない。なんとかしなくちゃ、と思い続けて10年。半径10メートルだか100メートルだか、狭い関係で活動するのは、音楽的内容は良くても、自転車操業で埒が明かない。銀行口座の残高を見て落ち込む・・・。

高温多湿の夏。湿度が高い場所がダメな私。早く秋になってほしい!
この夏中に家を修繕して、多湿の夏でも留守にできるように(またはここを人に貸せるように)して、乾燥した場所で仕事ができるようになりたい!

楽器を弾き、楽譜を広げると、勉強したいことがザクザク出てくる・・・。
パンデミック明けに行動範囲を広げられるように、準備の時!と言い聞かせている・・・。
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2021年03月30日

わたしがいる

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J.S.バッハのカンタータにおける言葉と音楽の結びつき。毎日、聖書を読む。その人の信仰がそうさせる。毎週一曲カンタータを作曲することは大変な仕事。歌詞の選択、音や和声付け、その音楽の内容の豊かさ、知的にも信仰的にも満足させる・・・そのような作品を続けて生むことができるなんて!
言葉と音楽の繋がりは、作曲家の思考であり、それは深い信仰から来るもの。霊感を受けること、感じること、常に勉強を続けることから生まれる。
その仕事はその人そのもの。それが真の芸術家。
そのような深い信仰から生まれる仕事に対しては、間違いや足りないものはない。
「わたしがいる」ことは、その人の意思表示。
水野源三さんの詩を読んで胸打たれる。選び抜かれた言葉は、その人そのもの。
限られた「言葉」「音」を選び取ることが技術だと思う。
この人は芸術家だ。
イエスを十字架にかけた群衆の中に自分がいる・・・
体を動かせない、声を出して話すこともできない人が、表す意思。わたしがいる、ということそのものが。
受難週に。
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2021年01月30日

音楽と自分が向き合う

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音楽(作品)と直接向き合うことは、自分の精神を自由にする。
先生のレッスンを受けるとは、ほかの人の思考回路で体験してみるということ。考えることを飛び越えて「答え」を得ることではない。
人は全てを一人で研究し、学び、体験することはできないから、過去の人や周りの人、先生から学ぶことは必要だ。人から学ぶことで視野を狭めるのではなく、世界が広がり、解放できたら!
私が演奏する、とは、自分で考えること。向き合っている音楽から、伝統と様式、音楽語法の知識をインプットするだけに留まらず、弓の動かし方や音程の取り方など、演奏につなげていく。今まで身体で覚えてきたことの応用。
その根本にあるのは、音楽から何を「感じる」か。
posted by makkida at 00:12| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする

2021年01月18日

あらためて、伝えるということ

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同じ土地(地域)で生まれ育った(あるいは長年住んだ)人たちの間では、きっと言わなくても意思疎通できる部分があるのだろうと思います。少ない反応で、例えば、言葉を発しなくても、笑顔はなくても、近寄ってくるならば、受け入れていることを意味している、とか。
演奏している時の反応だけでなく、普段の付き合いから、たびたび感じるのです。
反応の仕方、というのは人それぞれで、おとなしく控えめな人もいるし、感情を豊かに表す人もいるし、言葉を上手に組み立てて論理的に表す人もいる。それはそれで、反応なわけです。
何を考えているか、好きなのか好きじゃないのか、分からない。これは、もう、私が、火星を通り越して太陽系の端の何処かの惑星の宇宙人だからなのかもしれない・・・(笑)

新しい土地でゼロから始める、ということでもない。自分がどこにいても、歩みの延長だから、ゼロにはならない。
内容を理解してもらうには、肩書きではなく、口コミ、人との繋がりが大切です。続けていくことで、演奏者も聴き手も理解を深め、広がり、少しずつ関わる人が増えていく。
今まで企画し活動してきたこと−−−ガット弦を張って、バロックを始め、手探り状態で勉強しながら作ってきたコンサートを、お客様の多くは一緒に体験してきてくださった。留学先でバロックを始めて勉強してきたならともかく、モダンでずっと活動して、途中で急に日本の音楽界には「いない人」になり、自分にとっては道のない道を歩んできたつもりです。古い文献や楽譜から学び演奏に結びつける研究は、ヨーロッパだけでなく世界中で活発に日々更新されています。日本の隅っこで一人でやっていても、遅々として進まず。とにかく、手に入るものから学び、自分の感覚を鋭くして、いろいろな人の演奏や発言を参考にしつつ、それは一体どういうことなのか考えながら、身体で納得したことだけを演奏しています。より深い理解−−過去の音楽家の精神に出会い、魂が頷く音を出したい、そういう音楽を求めています。

辿れば辿るほど「分からない」ことがずるずると出てきます。
ソルミゼーションとは何か、誰の説明を聞いても、「こういうものだ」という説明しかないので、なかなか理解できない(これは実際に歌って使わないと意味がないですからね。)音階とは何か?音階は7音から成っているのは、一週間が7日からできているのと同じくらい、しっくりくるようで、不思議でもあります。8つ目に同じ音(曜日)が回ってくる・・・。
人間が作った決まりだけれど、宇宙の動きとピッタリ合っている・・・。

決まりごとは言語の文法のようなもので、各時代の音楽語法だと思います。遠く離れた時と場所を理解するのは並大抵のことではありません。演奏習慣は机上の勉強ではなく、身体で覚えるものです。音には性格や特徴、役割があり、公式のようなものを勉強しながら、それぞれの音楽を実践として、生きた音楽として演奏するのはスリリングです!ちょっとバランス崩しても始まったら終わりまで止まることができない。
演奏活動は一生終わりのない勉強です。

楽器や演奏法を自分の音楽の方向性の中で結びつけて話すこと。少しずつわかってきたことをお客様に説明しながら、演奏を聴いてもらう必要性を感じます。具体的な話を人に伝えることで、自分の演奏も明確になってくるだろうと思います。アイデアも技術も。
「おはなしコンサート」の再開のために、まだ続きそうなパンデミックを堪え忍びつつ、勉強と準備をするつもりです。
独奏楽器としてのチェロの作品と演奏の変遷として、イタリアのバロックを取り上げる「イタリア!イタリア!」シリーズ。バロック以降、ベートーヴェンに繋がる18世紀後半のチェリストたち。ゆくゆくは、ベートーヴェンからシューベルト、シューマン、ブラームスなどのドイツロマン派、ヒストリカルピアノとの共演も夢見つつ、19世紀後半ロマン派のピアノとのデュオまで、やりたいことは山積み!鍵盤奏者が羨ましい、だって、一人でこの範囲の音楽を演奏できてしまうのだもの・・・。
息の合うデュオを一緒に実現できそうだったピアニストは、残念ながらドイツへ移住・・・多くの変化が起こりますが、辛抱です。
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posted by makkida at 23:13| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする

2020年12月18日

見えない決まりごと

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今朝の黒姫。
雪が降り続き、やっと晴れました。膝下まで雪が積もっています。雪に覆われると別世界になり、静けさがやってきます。
生活するには危険なこともあります。道路が凍るとか、積雪で動けないとか、雪降ろしとか、煙突が雪でふさがれるとか、屋根の雪が落ちてくるとか・・・。
楽器を担いで出かけられるのだろうか・・・。

ずーっと頭に流れている旋律、
よそ者としてやってきて よそ者として去ってゆく

東京の感染者数がぐんぐん上がってきて、気のせいか、ここのところ、車につけている東京のナンバープレートをジロジロ見られることが多くなったようです。
東京に行くとウィルスがうようよして、行けば必ず感染して帰ってくるんでしょうか。どのように行動しているか、ナンバープレート見ただけで判断できるんでしょうか。家族の看病、仕事、どうしても感染拡大地域に行かなければならない人はいます。
長野の繁華街や街にも行かず、車で東京を仕事で往復し、どこへ移動するときも車ですが、見ただけでは判断できないですからね。
リスクが高い場所のナンバープレートがいるだけで村八分状態・・・。遠方で学校に行っている子どもや住んでいる親戚に、故郷に帰ってくるな、と言う。言わねば自分たちの居場所がなくなる。
何処のナンバープレートか、地名によるイメージを多くの人は共通して持っています。同郷人だと「安心」したり、レッテルを貼ったり、話のネタにもなるわけです。
福島の原発事故の後、福島から避難している人々もこの冷たい視線、差別や嫌がらせにあいました。
今回のパンデミックは、地球に住む人間が困難を共有しているのではないのでしょうか?

人は何処かで住む場所を見つけて生きていかなければならない。
ずっと長いあいだ忘れていたことを思い出します。
ヨーロッパのある街で、パン屋で順番を待っていたら、私の番になったときに店員がアジア人の私を飛ばして次の人の注文を聞きました。次の番だった女性が「次はこの女性よ」と私を見て店員に促してくれました。こういう経験は多くの人があるでしょう。

住民票を移しても、その土地で長いこと暮らしている人とは違う待遇になってしまう。コミュニティが作れなければ、もちろんそういうことはあります。
最低限の生活するのに必要なことを求めるのは、「わがまま」ではないでしょう。

クリスマスを迎えようとしているときに、世界中で居場所をなくしている人たち、難民、一人ぼっちで家にいる高齢者や持病のある人などに思いを馳せます。


posted by makkida at 11:36| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする
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