2018年05月14日

舌が動き始め、私は動かされる

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1音目から、音を出す前の空気の動きから、音楽に引きこまれた・・・!ヴィットリオ・ギエルミ氏のヴィオラ・ダ・ガンバソロを聴きました。
楽器の中の調和(共鳴)と空間に放たれた音の調和の美しさ。
調弦の美しいこと!指で爪弾くと古代のハープのよう、空気中にふわっと広がって上っていきます。
民俗音楽のような生々しいガットの感触から、洗練された表現まで、多彩な喋り方、音色、光と陰・・・。J.S.バッハのチェロ組曲ではチェロを忘れてしまうほどの説得力がありました。
休憩なしで、音楽の世界に入り込んだ、充実のプログラム。始終ワクワク、ドキドキの至福の時間でした!

コンサートの翌日、小さなマスタークラスがありました。

どのように弓を持つか、どうしてコンサートであのように弓を持ったのか、というよくある奏法に関する問い。
その答えは、単に、外から見える技術的なものではなく、音楽家として内面から求める姿勢、向き合い方を語ることによって解き明かされたのでした。

まず、ヴィオラ・ダ・ガンバという楽器は、ヘッド(彫刻のある頭)が天、テールピースのある下部は地を表す。上下に張られた弦は天と地を繋ぐもの。楽器のそれぞれの部分には意味があるとのこと。やはりカトリック教徒の多いイタリア人ならでは。
バロック時代の音楽は言葉を喋る、語る音楽でした。そう、「言葉がはじめにあった」。
まず天と地をつなぐ(そして個々の人間が直接繋がる)縦の方向の弦があり、次に横の方向、すなわち弓がある。そして3番目に演奏家である私がいる。演奏者が一番にあるのではないのです。
まるで鐘が響くように、弦が風に触れて音を鳴らす古代の楽器のように。楽器が鳴りたいように、喋りたいように、そのもの本来の音を引き出すために、奏者は導かれて演奏するのです。

フランス革命によって社会の構造が大きく変化した流れの中で、音楽のあり方も変わり、市民の生活の中に入ってより身近になり、今現在に至っています。一般大衆に向けて、音楽の構造も楽器編成も音量も大きくなるのと同時に、繊細なヴィオール属は表舞台から姿を消して行きます。芸術に神の存在が直接関わっていましたが、表向きの音楽は次第に信仰と離れて行きます。でも、本来、自然の営みの中で大いなる力に身を委ね、感謝や心地よさを感じながら日々暮らしていた人間の中身はそれほど変わらないように思います。
音楽によって天と地をつなぐ、そのために動かされ働く演奏家。そのように奏でられる音楽によって、人の心は喜びに満ち、癒されるのです。
彼の演奏は音楽の本質を表していました。

バロックダンスの起源は民俗音楽のダンスにあります。舞曲のリズムは頭ではなく、身体で感じるものです。彼が言う「スイング」は生きたリズムの感覚です。
演奏で感じたことが、言葉によって明らかにされました。何よりも、音は多くを語るのです!
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2018年05月12日

古代の麦

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喜びのクッキー!
聖母マリアの喜び。
紀元前5000年より前から食べられていたスペルト小麦Spelta/Dinkelを使ったもの。
ヒルデガルトは「最良の穀物」と言うほどのおすすめの古代麦でした。
「性質は温で、栄養価も高く、しかも他の穀物より穏やかである。血液を佳良にし、肉付きも調整される。また、幸福な気持ちを生じさせ、持って生まれた気質に喜びをもたらす。どんな食べ方をしても消化吸収が良い。・・・病人がこれを食べると、良質の軟膏が外から効くように、内側から病が癒されて行く」(『聖ヒルデガルトの医学と自然学』より)

なんで、フランス語と英語表記の原材料でスペルト小麦粉とそば粉の%が違うんだろう・・・
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2018年05月10日

元気ない脳・・・

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振り返ってみると、7、8年が一つの節かな、と思っています。
大きな会社の一員でないけれど、小さなグループで事務所に属して音楽の業界の中でやっていた活動から離れて、ちょうどそのくらいの年月が流れました。そこを離れたら音楽をやめるということではないわけで、人と出会って、コンサートを企画して制作し演奏する、やっていることは何も変わらない。外から見れば。
一人になってみると、固まった同じ見方でずっとやっていることに気づかない。環境を変えても変わらないよ、というのはよく言うことです。脳の働かせかたを変えなければ、自分の見方も、考え方も変えられない。
近づいても近寄ることができない大きな山、そんな音楽とずーっと向き合っているので、自分がどうなっているのか客観的に見られないのです。なんだか子どもの頃からいつも空想の世界に、自分の頭の中に逃げ込んでしまう・・・結局、思考回路が同じになってしまう。
そして、あのときこうすればよかった、あれが出来なかったから、そんな後悔や、人を羨む、嫉妬、小さな怒り、イライラから抜け出せない。人と会ったら仕事に繋げなきゃ、それが出来ないから自分はダメなんだ、という強迫観念はどうにもならない。

そうか。
辞めたら、ちょっと会いたくない人、苦手な人と会わなくていいんだ。
そこにいないから自由に音楽ができるんだ。
それを思うだけでホッとしました。
そうやってリセットしたら、すがるものもないし、あちらからどんどん仕事も来ないけど、ちょっと楽になったのでした。
今までやって来なかった罰、ではなくて、しがらみが無くなったから別のこともできる、と。
囚われていたことに気づくまでに何年もかかります。
脱皮するまでに7、8年か・・・。

自分をコントロールすると思わない方がいいのではないかな。理想を抱きつつ、まず今の自分を見る、まず身の回りを見る、そして行動すればいいんじゃないかと。
人間がなんでもコントロールできるなんて思わない方がいいでしょう。人間にはどうすることもできない大きな力があり(その大きな存在が「神」だと思いますが)、ひとりの人間の中にも脳という大きな可能性があり、死ぬまでに使い切ることができないんです。
憲法前文を読み返してみると、そこには人類の理想があり、専制と隷従、圧迫と偏狭は地上からなくならず、世界のひとりひとりが平和で生きることはまだまだ実現できていない。
人類の歴史で70年、80年なんて、まだまだ。
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2018年04月28日

ヴィオラとチェロのデュオ:茶房ライヴシリーズその2

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今年1月から始まりました、松本市は中町の蔵シック館・茶房での「築140年の蔵と、226歳のイタリアのチェロとの出逢い」コンサートシリーズ。茶房のマスターとご一緒に不定期に開催させていただいています。
長い年月を経て硬く締まった材木が床や梁などに使われている蔵の店、茶房。チェロを弾いてみると、想像以上に低音がよく鳴り、高音も柔らかく、気持ちのいい理想的な響き!築140年の蔵とガット(羊腸)弦を張った226歳のチェロが織り成す特別なハーモニーを、皆様にも味わっていただきたく、コンサートを企画しました。
シリーズ2回目は、ヨーロッパで育ち教育を受けた若き俊英、木下雄介氏を迎え、ヴィオラとチェロの音楽をお届けします。明るく爽やかな音色を持つヴィオラ奏者木下氏とのアンサンブルは、知的な音での遊びが楽しく、頭が快適に働き高揚感があります。2年ぶりの共演です。作曲当時の様式に合った奏法を大切にする二人による音の対話で、ヨーロッパ諸国の古今の作品をお楽しみください。

プログラムは、1720年初めに書かれた有名なJ.S.バッハの鍵盤楽器のためのインヴェンションで始まり、18世紀終わりに書かれたベートーヴェンのユニークな題名の二重奏、そして20世紀に作曲された作品を集めました。もともと、ヴィオラとチェロのための二重奏曲は(この二つの楽器だけの演奏会自体が!)少ないので、この日には、滅多に演奏されない曲を聴くことができます。ドイツのパウル・ヒンデミット、ポーランドのヴィトルト・ルトスワフスキ。そして第二次大戦中ナチスによって迫害されたユダヤ人の作曲家の一人ジクムント・シュールの、テレジン強制収容所の音楽家メモリアルプロジェクトとして出版されているデュオも演奏します。
そのほか、木下氏が育ったイギリスの有名な作曲家ベンジャミン・ブリテンのヴィオラソロのための作品や、フィンランドを代表するジャン・シベリウスの若い頃の珍しいチェロソロのための作品も。ヨーロッパの様々な国の薫り、人々の生活を感じていただけたらと思います。
クラシック愛好家にも手応えのある直球のプログラムを、息遣いの聴こえる至近距離で、まさに弾き手と聴き手が一体となって味わえる室内楽コンサートになるでしょう。
東京でのコンサートは予定しておりませんので、季節のいいこの時期、松本へ観光がてらお出かけいただけましたら幸いです。
ぜひ、雰囲気のある蔵のコンサートにお越しください!

2018年6月24日16時
富田牧子茶房ライヴその2 「Viola & Cello! 」
ヴィオラとチェロのデュオ
〜蔵で聴く弦楽器のアンサンブル、中低音の響きを味わうコンサート
ゲスト:木下雄介(ヴィオラ)

【場所】蔵シック館・茶房(松本市)
【プログラム】
J.S.バッハ:インヴェンションより
L.v.ベートーヴェン:2つのオブリガート眼鏡付きの二重奏曲
P.ヒンデミット:二重奏曲(1934)
W.ルトスワフスキ:牧歌集(1952/62)
Z.シュール:2つのハシディック・ダンス(1941/42)
B.ブリテン:エレジー(1930)[ヴィオラソロ]
J.シベリウス:主題と変奏(1887)[チェロソロ]
【料金】要予約 一般4000円/高校生以下2000円  *1ドリンク付き 未就学児の膝上鑑賞無料
【予約・問合せ】☎︎070−4314−3735(えびはら) 
📩MA企画 kikaku_ma☆yahoo.co.jp(☆を@にタイプし直してください)[メールでのご予約・お問合せは前日まで]
💡チラシはこちら
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20180624茶房ライヴ2裏面.pdf

出演者プロフィール
木下雄介(ヴィオラ)
 岡山市生まれ。8歳から25歳までの17年間をイギリスで過ごす。マンチェスター・チータムズ音楽学校 、英国北王立音楽大学を卒業。これまでに今井信子、トーマス-リーブル、アネット・イッサーリス、デイヴィッド・タケノ各氏に師事。イソラーニ・カルテットのメンバーとしてイギリス各地で演奏、メルボルンで開催された2009年第一回アジア・パシフィック室内楽コンクールにて、セミ・ファイナリスト。2010年ロンドン交響楽団のオーケストラアカデミーでトレーニングを受ける。これまでに、ハレ管弦楽団、エイジ・オブ・エンライテンメント管弦楽団等で弾き研鑽を積む。2010年よりバロックオーケストラ ウォルフィッシュ・バンドで活動後、2012年日本帰国。これまでにイギリス・ケント、倉敷、広島にてソロリサイタルを開催。2014年フィリピン・マニラにてソロリサイタル及びマスタークラスを開催。現在大阪フィルハーモニー交響楽団トップ奏者として活動する 傍ら、岡山大学交響楽団、京都大学交響楽団にて後進の指導に情熱を燃やしている。

富田牧子(チェロ)
 東京芸術大学在学中にリサイタルを行い、演奏活動を始める。イタリア、フランス、ドイツ、オーストリアの音楽祭や講習会に参加、ニューヨークでハーヴィ・シャピロ氏の指導を仰ぐなど、ソロと室内楽の研鑽を積む。大学院修士課程修了後ハンガリー・ブダペストに留学、バルトーク弦楽四重奏団チェロ奏者ラースロー・メズー氏に師事。
NHK-FM「名曲リサイタル」、ORF(オーストリア放送)の公開録音に出演。各地でソロリサイタルを開催するほか、弦楽四重奏団メンバーとしての活動を行う。その後ピリオド奏法への関心を深め、バロックと現代の楽器にガット(羊腸)弦を張り、様式の異なる弓を使い分けながら、様々な楽器との組み合わせによる「充実した内容の音楽を間近で味わうコンサート」の企画を続けて15年になる。J.S.バッハと20、21世紀の作品を組み合わせたサンドイッチ・コンサートも好評継続中。パーカッションのコスマス・カピッツァ氏とのデュオ《羊とヤギ》でCD「O Terra(大地よ)」をリリース。
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2018年04月27日

和、環、輪、話、いろんな”わ”

20180425味噌仕込みのコピー.JPGコウジカビが作り出す環。玄米味噌仕込み!
音楽はまず音の調和。ハーモニー。
人と人の調和、アンサンブルでは楽器と楽器の響き合いによる対話が生まれます。
演奏する人と楽器と演奏する作品の関係性が作り出す調和です。

演奏家は表現する。
聴き手は追体験をする。
そして自分の体験にする。
感じたことや体験を伝える。
その感想を聞いて、また一人音楽を聴きたいと思う。
新たな発見をし、新たな世界に入っていく。
演奏家に反応が伝わる。

演奏家は調和がとれた楽器を弾く。
その音に心が安らぎ、リフレッシュ。
一緒に弾く人も楽しくなる。
聴く人の心や身体が元気になる。
聴き手の楽しさ、感情が弾き手にも伝わる。

回り回って返って来ます。
返ってきたものが全て音になります。
たくさんの個(個性)が働き、全ての人が関わって芸術が育ちます。

「自分には個性がないから創造する仕事はできない」という人が、優秀な編集者だったりします。作家それぞれにとって最良な形で、潜在する力を見つけたり、応援して励ましたり、テーマを引き出し方向を整理したりする。素晴らしい個性ではないですか!

作家がまだ若く世に出始めた時から作品を観続ける鑑賞者。表現者の人間的成長に長〜く付き合う受け手。ずっと聴き続ける聴き手。
芸術の素晴らしい支援者です。

どれが欠けても成り立たない芸術。素敵な関係性。
芸術がつなぎ人が作る環。輪を描き回りながら前進する人、芸術、そして地球。やはりここに行き着きます。
世界の調和。ハルモニア・ムンディ。
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2018年04月22日

そもそも音を出すこと

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楽器を弾ける(練習できる)場所を確保することは演奏家にとって重要な問題です。住居はもちろん、旅先で、アンサンブルの練習など、いつでもどこでも、気兼ねなく弾けるかどうかは、もっとも気になるポイントとなります。
住宅街を歩いていると、リコーダー、鍵盤ハーモニカ、サックス、始めたばかりらしいヴァイオリンやピアノなど聞こえてきます。
様々な点で、楽器を弾くということは本当に難しいとつくづく思います。
精神状態は体の動きに関わってきます。苦情が来ないかびくびくしていると、のびのび音を出せません。そうすると、いつまでたっても楽器は上達しない。ヘッドホンで聴けたり、音量を絞って練習できるサイレント楽器では、空気の振動がわからないから、楽器をどのように鳴らし音を響かせるか、という音楽にとって一番大切な、根本的なところが抜けてしまいます。
専門家としての話の前に、そもそも音を出せる住宅はご近所さんなどとの関係がとても大切です。親切な隣人に恵まれていたら本当に幸運です。
何故なら、練習は演奏会ではないから!

楽器練習の音を吸音し、外に漏れないようにする音楽室は必要なのですが、吸音が多すぎると弾いている本人はとても辛いのです。音は元来、響かせるもの。それなのに壁や天井で吸ってしまうのです。音の広がりは聴こえず、離れたところに届く音を聴く練習もできず、楽器から出ている音だけで音楽を作らなければならない。ものすごく耳が疲れます。もともと畳が使われていた日本の家屋は、楽器が響く構造ではありません。結局、指の動かし方の練習(メカニック)が主になってしまうのでしょう。

気持ちよく楽器が弾ける環境があるということは(そして周りの人も幸せなら)、本当にありがたいことです!
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2018年04月18日

つながりを思う

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音楽家にとって人との繋がり(だけ、と言ってもいいくらい)が演奏活動を続けていく上で大事なことだと思います。
自分が目指す形、死ぬまでにできるかわからないけれど、こうなったらいいな、という平和な世界や幸せな音楽の体験を実現するには、人との出会いしかないのでしょう。
当然、豊かな表現のため技術を向上する仕事は自分にしかできない。何を受け取り、作るか、湧き上がるイメージや霊感を得た自分にしか分からない。それを継続するのが芸術家の仕事です。
加えて面白いと思うのは、現れた物には作成した本人が気づかない可能性が潜んでいる場合があるということです。誰かが見つけてくれたり、思いがけない視点を教えてくれる、そんな幸運もあります。
人の頭の中のイメージは簡単に形にならない。理論や数式通りには表れない。だから続けるのかもしれません。
そして、受け取る人にいつ出会えるか、それも分からないのです。

ある部分だけ切り取られて商業的に宣伝されている芸術にも、芸術家の本質を見ることができます。素の部分を見ることができて、やっぱり凄い人だ、と感じる。受け取る側の自由もなくてはならないでしょう。

松本市美術館で開催している「草間彌生」展。10代から現在に至る彼女の作品を見て、彼女の愛をどう感じるか、人それぞれです。尊敬する牧師サッちゃん先生が「展覧会、素晴らしかったわよ!」と勧めて下さらなければ、どうしても行こうとは思わなかったかもしれないのだから、出会えるかどうかは、ほんのちょっとしたチャンスが与えられることなのです。
演奏会も同じでしょう。音楽家はとにかく続けること。出会えるまで。
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2018年04月14日

描く人、見る人

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今年の桜の見頃は、東京のほか、仙台、京都、松本回りましたがどこも一週間くらい早かったようです。

京都の美術家、木坂宏次朗氏の個展(銀閣寺近くのギャラリー揺にて)に行ってきました。
彼は「時間」を大事にしているようです。絵は時間のある一点を切り取ったものですが、作家は時間を重ねて描き、人はその前後を想像することもできます。
あるものに反対(逆)のものが含まれます。生を描く(考える)ということは死も描く(考える)ということ。永遠を考えるとき、時間を経て物が朽ちていくことも考える・・・。
著名な作家や哲学者の言葉や文章に反応し、彼らがどのように見ていたのか、それを絵にしようとする。人はこの言葉をどう考え、どのように物を見ているのか、頭の中、思考を絵にしているように思いました。
例えば瓶を描くとき、配置、光、どこから見るか、など一人一人違います。平和、幸せ・・・ある言葉一つとっても、その使い方や捉え方には少しずつ、あるいはだいぶ違いがあります。絵を見て何を感じるか、それは見る人の中にあるもので見ています。思考回路は人それぞれにあります。
それは当然のことなのですが、繊細な筆や色や線で描かれた作品を前に、言葉を追い、考え迷う、その過程を楽しんでいるのを感じるのです。
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2018年03月31日

とても自然で愛のあるモーツァルト

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こんなにリラックスしたモーツァルトのヴァイオリンの音は初めて聴く気がします。
ヒロ・クロサキ氏のヴァイオリンとリンダ・ニコルソン氏のフォルテピアノで1990年代前半に録音されたモーツァルトのソナタ集を聴いて、とても心地いい気分です。二人ともヴァイオリンとピアノの楽器の音というより、人間の声のようで、息が本当にピッタリ合っています。
速い楽章は、よく聴く演奏より少し遅めのようですが、上滑りしない進み具合、これがとっても気持ちがいいのです。知的でなければこのテンポではしっくり来ないだろうと思います。小細工はどこにも聴こえず、器が大きく、丁寧で、抑揚や陰影のある演奏。音形が上へ向かって高揚して行っても、二人の「気」が上がらずに、まるで丹田に気があるように重心が下に降りたままだから、身体が柔軟で、音が固くならず、音楽に夢中になってもバランスを崩さない。バランスが抜群にいいデュオです。
素足で地面に立って、ポカポカ暖かい、爽やかな風を身体に感じて、ああ〜気持ちがいいな〜。そんな感じ。
天才は自然体。伸びやかさに加え、大きな愛があって、温かで知的な人間モーツァルトが見えてきます。

実は、ここ8年ばかり気になっているヴァイオリニスト。
生で聴きたい!
posted by makkida at 22:10| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする

2018年03月28日

絵とお話と聖歌

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ユビラーテ奏楽者の会の宗教改革500年特別企画で、「宗教改革の精神による美術」と題して、画家・渡辺総一氏による講演と絵画展が東京の目白で開かれました。氏が常に題材にしておられる聖書の中から、それぞれの作品の元となった箇所や聖句をお話しされ、その後それに関連するルターなどの16〜18世紀に作曲されたコラールを、義母木田みな子氏の演奏するリードオルガンと一緒に歌う、という内容でした。
まず、まっすぐに神と一人一人が直接つながり、自由であること。そして、深い信仰を持って聖書をよく読み勉強され、「自分を無にして」ただひたすらに絵を描く。渡辺氏の制作のベースとなっている宗教改革の精神は「描かれているものだけが見えれば良い。描き手はそこにいなくていい」ということ。その真摯な姿は、まさに音楽の在り方そのものだと思いました。
細部にわたって丁寧に描くことは、技巧を見せるための(私の技術を見て、という)ものではなく、よくありたい、よく描きたい、そのものの本質に迫る創作の心構え(生き方)の現れなのであり、それは音に気持ち(と言うと語弊がありそうだが・・・)が入った、音が消えるまで与えられた時間いっぱい満ちている演奏と同じだと感じました。
聖句の意味と絵のつながりが渡辺氏の熱い想いとともに伝わり、それだけでも涙がこみ上げてくるのに、続くコラールでは感動が最高潮に達するのでした。
素晴らしい時でした!!!

この内容は芸術家にとって本質的な、なんのために(どうして)芸術はあるのか、という現れです。

ヨーロッパ各地の美術館、教会などで必ず目にする膨大なキリスト教美術。芸術は宗教と切り離せません。
宗教改革以前、カトリックの信者も自己顕示のためでなく、ただ神を賛美するために、感動を持って美を創造したでしょう。美しいものを作りたい、という欲求は止めることができない。生まれた時に信仰を授かって、神の存在は当たり前のようにある芸術家が、若いときは己の素晴らしい技を見せる作品を製作したとしても、いい条件でたくさん仕事をするためには権威に認められる必要があるし、当然でしょう。制作に没頭するときは、上司や権力に認められるためではなく、天と直接繋がって霊的なものを受けたに違いありません。
どんな組織でも力が集中しすぎると傲慢になり一部の権力者とそれに媚びる人々のみが潤い、社会に腐敗が始まり、全ての生き物の命が大切にされる平和な「神の国」の理想は無くなる。歴史上、その時々に、聖像や美術作品を破壊までして本質と向き合おうとしたのでしょうけど、その考え方は偶像は拝まないという形でも今に至っているのだけれど、芸術が悪い、贅沢なわけではないでしょう。
勉強不足なのでまだ何か言える身ではありませんが。
謙虚な心から生まれた作品が時代を超えて人々を感動させてくれます。太古から人間は、大いなる存在を感じて創造し続けているのでしょう。
それぞれの作品と向き合ったときの対話・・・自分のどんな心の状態になるか、自分が何を感じるか、何が見えて(聞こえて)くるか。横のつながりの前に、作品の作者も見ている私もそれぞれ垂直のつながりがあるのでしょう、気づかないうちに。

終わってからの感想になってしまいました。
ぜひ、間を置くことなく同じ内容で再演、いや、何度もあちこちで開催されますように。


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2018年03月26日

Arpeggione !

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別名ギター=チェロ。アルペッジョーネ。19世紀初めにウィーンでギター製作者シュタウファーが作った、弓で弾くギターです。調弦はギターと同じ、低い方からE-A-d-g-h-e(ミ、ラ、レ、ソ、シ、ミ)。
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シューベルトのアルペッジョーネのためのソナタはこの楽器のために書かれました。

チェロで弾いても素晴らしい音楽ですが、弾きにくい。それは、技術があれば思い描くように弾けるかというと、そういう意味ではなく。音楽と楽器の最も鳴る場所(調性のせいではなくて。a-Mollは鳴りやすい調です)がぴったり来ないジレンマで、いくら練習してもどうもしっくり来ない、随所に謎が多い曲でした。音楽はものすごく自然なのに、どうしてこんなに苦労が多い動きをしなければならないのか。

しかし!ここ、これ!霧が晴れたよう。
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この高音のeは一番のクライマックスなのに、チェロで弾くと苦しそうな音になる。技術的な問題ではなくて、楽器が楽にならないポジションだということ。元の楽器なら、一番楽な姿勢で弾ける場所。音楽が拡がる時に、自然に、伸びやかに歌える、と言えば良いか。ピリオド奏法が面白いのは、こういうことです!
そして、これなんだよな〜。私の抱いていたイメージ通りの音形。高音から最低音まで、まるで鐘が鳴るような、風が吹いて弦が触れて鳴っているように自然な響き。
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楽器が「鳴る」と言っても、チェロのように朗々と響くわけではありません。そういう意味では「鳴らない」。別の楽器ですから、響き方が全く違うのです。楽器として優れているかどうか、ヴァイオリン属と比較する話ではないのです。
そしてこの曲は、感情を音に込めてドラマチックに、豊かな音量で弾くような音楽ではないのがわかります。シューベルトの孤独はそういう音ではないから。
チェロの演奏に慣れてしまっていて、物足りないと思う聴衆はいるでしょう。「チェロ版アルペッジョーネソナタ」が別の音楽になるのはしょうがないと思います。

アルペッジョーネを手に入れて一年ほど経ちます。ギターが弾けない私は、なかなか身体が楽器のサイズやなり方、調弦に慣れず、頭がスイッチせず、取り掛かっては止め、弾いては止め、音階やシュスターの教則本をノロノロと繰り返し、楽器は鳴らないし頭は回らないしで眠くなる、で、進まない。やっとシューベルトにとりかかったところ。左手(指遣い)はまだまだ。はぁ。やンなっちゃう 。のろまで不器用な私・・・。
楽器が応えるようになるのはいつのことか。
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すきなこと

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まだ4日目の醤油麹。やっと柔らかくなってきた。ずっと塩麹を作っていたけど、こちらも楽しみ。

自給自足の暮らし、できることはなんでも自分でする生活を何十年も続けている80代の女性が本に書いていた。
「料理をしていると気分が良くなるの」
輝く笑顔が見えるようだ。

生活の基本で、毎日必要なことで、作れるものは何でも自分で作るのは素晴らしい。機嫌よく、楽しく日常の仕事をする。出来そうでいて難しい。

食べたもので身体はできている。
日々のこまごまとした行いで「私」はできている。
発した言葉でできている。

だとしたら、自分の身体が喜ぶことや気持ちいいこと、つまり本当に好きなことは我慢しないほうがいい。
頭で「いいこと」と解っていても、機嫌悪くなることなら身体に良くないかもしれない。
「好きなこと」って悪いことじゃない。自分勝手なことじゃない。

私にとって気分良くなることは、何と言ってもチェロを弾くこと。
日常生活の役には立たないし、多分、こういう感覚なら、お金になる仕事にもならないんだろうと思う(苦笑)が、コンサートは自分が気持ちよくなるために弾くわけじゃない。
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2018年03月24日

おまじない

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「くまのプーさん」の石井桃子さんの翻訳はすごいなあ、と思う。初めに読んだ幼い頃、自然に入ってくる言葉遣いやセリフはとても印象に残った。のちに何度も読み返し、言葉遊びや(元は英語の)綴りまちがいにワクワクした。ひゃくちょ森、コプタ、おたやうひ、およわい、おやわい、すずめはなぜすずめる・・・そしてクリストファー・ロビンの「ばっかなクマのやつ」。
今更どうしようもないへまや過去の失敗(・・・それほど深刻でないが自分の至らなさが情けなくなる思い出)を、何かの拍子で思い出すたびに、「やンなっちゃう」と頭に浮かぶ。そう、くまのプーの口癖。
魔法の言葉。

「早く、早く」ではなく、「ゆっくりでいいよ」と言われて育つ子どもはいるのかな。

動きが速すぎると、頭(脳)が付いてこない時がある。忘れ物して2階に駆け上がったものの、「あれ何だったっけ」ということないですか?これ、慌てて身体に付いてこれなかった脳みそを下に置いてきたんだと思っている。後からやってくるのを待てば思い出す。または、脳と同じテンポで動けばいいんだろう。つい、急いでしまうのだけれど・・・
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ちょっと見直してみる

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膝に挟む姿勢は楽器が大きいと長い時間は続けられない。楽器のサイズは細部にわたって楽器によって違う。
私のバロックチェロは、楽器の厚み、下半分の長さや幅がもう少し小さければ、抱えるのが楽だと思う。それだけではない。表板が厚いので音がこもり気味で、クリアに軽く発音しない。が、物は考えようで、悪いことではない。そもそも低音楽器は鳴り方が遅れてくるものなのだ。太い弦を弓で引っ掛けて発音し、響きが板に伝わり空気が振動するのには時間がかかる。
その上、バロック時代にチェロはまだ通奏低音としての役割が主流で、それに対して独奏楽器として技巧的なことも色々試してみようと発想もあり、細かい音符を速く巧みに弾いたところで、高音楽器のようにパリパリと聴こえた訳ではないだろう。この時代に、果たして、全ての音符が輝かしく明瞭に聴こえることが素晴らしい演奏だったのかどうか。電気を通して聴く高音質のデジタル音に慣れてしまった現代人が想像する「輝かしく明瞭な音」と200,300年前に奏でられていた「それ」が同じではないだろう。

・・・などと色々考えながら、どうしてこの痛みがくるのか、耳が詰まるのか、しっくり来ないのか、あれこれやってみる。どうやら、楽器がそばで鳴る音が大きすぎて、無意識のうちに顔を遠くに離してしまうらしい。
初めの構え方からいったん離れてみようと思う。やはり、体の丈夫さや大事にするポイントは、演奏家それぞれなのだから、私には無理だ。・・・そんなことの繰り返し。

正しい構え方、なんてない。
上手くなるには自分で考えて練習するだけ。人それぞれどこかに何か問題を持ちながらやっている。どんな努力も素晴らしい!

だから、まず耳が良く、音程感リズム感があり、いい音で、知的で、音楽的で、体格に恵まれていて、楽器をリラックスして演奏し、身体にも無理がない。その上、暗譜で巧みに難曲を弾きこなし、日々大活躍している演奏家というのは、もう奇跡みたいなものだ・・・。どの時代にも精通していて、何を弾いても聴衆に感動を与えられなんて・・・あり得ない!
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2018年03月22日

家の近くのコーヒー豆店の店主の犬。犬の店長。年のせいでもあるのだろうけど、穏やかで静かで、訪ねるとだいたい横になっている。ご挨拶にちょっと近づいて、また横になるか、手を舐めてくれるときもある。

ある日の店長。
調子が悪くて身体が冷えている客にちょっと近寄ると、すぐ離れて、自分の皿の水をしばらく飲んでいた。今日はフレンドリーじゃないかな、と思っていたら、また近寄ってきて手を舐めてくれた。
あとで気づくと冷たかった手がポカポカ温まっていた。
素晴らしい癒し。
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2018年03月19日

こたえ

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国会議員が責任追及されてかわすやり取りや、それを私たちが追求し批判し抗議するとき。
聖書に書かれている言葉を読むとき。
楽譜を音にしていくとき。
一体何が起こっているのか、それが何を意味するのか考えるときに、問題の本質がずれて行ったり無くなったりすることがあります。
まず自分が自ら立っていること(経済的に自立とか、足で立つ、ではなくて)から始めなくては、気づくことも考えることも見ること出来ないのでは。それが無ければ「素」や「無」であることも難しいと思います。

宗教や政治がタブー。
何も信じられない、という私の方からの一方的な遮断。
では、どうして世界には様々な宗教があり、人々が大事にして生きているのでしょう。どんな国でも政治がなければ動いていかないし、国と国が戦争しないように共存することもできません。政治は誰のためにある?「国民」という言葉の違和感、それはなんだろう。戦争が無くならないのは宗教が悪いのではありません。音楽も「利用され」ます。誰に?
「〇〇される」受け身で終わるのでは無く、利用する、煽動する思考と行為に注意しなければ。

人は歳とれば解ると言い、どこ(大学や国)で学び、何年携わっているか重ねた年月が信用され、その「理解」の中身も知識や情報の多さに一目置くようです。何を「信じる」のでしょうね?
経験しなければ身体でわからないこともたくさんあります。「わかる」とは?
物事や人と出会う。そしてその関係において、問題点が見え、自分の無知に気づく。喜び、痛みや苦しみ、違和感を覚え、私自身とその物事や人とは無関係ではなくなる。それは「反応する」ということ。
「正解」と「答え」は同じでしょうか。
私は音楽をしたいのであって、楽器を弾くために音楽を学ぶのではない。音楽をするときに私にピッタリ来る(表現できる)道具を使うのです。つまり、楽器を弾く行為が音楽することになりたいのです。楽器は反応するものです。音で敏感に応えるのです。
何を教えるのでしょうね。何が正しくて何が間違っているか、ですか?
教師も生徒も身体があり頭があり心がある。ひとりひとりの人格を大切にする、当たり前のことが本当に難しいです。
仕事は生き方ではない、大学は学問する場所ではない、いくらでも否定はできるけれど、人それぞれ捉え方でもあります。何を大事にするか自分で探して、大事なことを大事にしていく。
楽譜の音符を正確に並べて音にし暗譜することは音楽ではなく、楽譜から読み解くのは音楽であり、楽譜や楽器を手にしたときに本質に立ち返り考え、自ら答えを導いていくことです。何がいい音なのか?

横田幸子牧師が今までお話しされてきた説教をまとめたご著書『神と向き合って生きる』を読みながら、私の抱いている言葉にならない違和感や空白を少しずつ埋めています。
どこに答えがあるかいつ出会えるか分からないから、私が私であることを、たまに嫌になりながらも、続けていこうと思うのです。

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2018年03月05日

3月4日コンサートで頂いたご寄附への感謝

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3月4日(日)羊とヤギライヴで、10日に佐渡で開催する「ミホプロジェクトチャリティコンサート《ひまわりの丘》」をご紹介しました。今回のチャリティコンサートの収益は「福島とむすぶ 佐渡へっついの家」に寄附いたします。佐渡へはお越しいただけないと思いますが、もし内容にご賛同いただけましたらコンサートへのご寄附をお願いしましたところ、多くのご厚意をいただきましたのでご報告申し上げます。

総額30,600円を頂戴いたしました。
どうもありがとうございます。頂いた寄附金は大切に佐渡へお運びいたします。

コンサートの詳細
信木美穂/詩画集「ひまわりの丘」について

感謝をこめて。

3月5日 富田牧子
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2018年02月27日

録音することについて

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このシリーズのチョコレートが好き!
前回(2月26日)の記事の続きにもなりますが。

いままでCDを作ることには否定的だったけれど、羊とヤギの1枚目を思い切って制作して「たいしたことじゃない」と思えてきました。
もちろん、音楽は生でないと伝わらないものはたくさんあります。見えないものが大事なように、生で聴くと録音では聴こえない音も聴こえ(身体で感じられ)て、実はそれがとても大事な要素でもあるから。それは信じて疑わない。
昔の録音はコンピュータで修正したり、直したりできなかった(録音するテープは貴重だった)のだから、昔の巨匠たちは本当に素晴らしかったと思います。

音楽は時間の芸術なのだから消えていくのが当然、という最もらしい言い訳。
録音なんて、演奏会(ライヴ)で熱く完璧に弾けるトップクラスの人が残せばいいんだ、という乱暴な言い訳。
私は物を残したくない、これ以上物を増やしたくない、という感情的な言い訳。

演奏を残すことは自分の仕事に責任を持つことでもあります。人から批評や批判されることが怖いから、自信が持てなかった。つまり勇気がないということです。他の人はどうなのか知りません。私はそうだということです。

いっとき楽しんでいただいて(何かのお役に立てたらもちろん嬉しいです)、思い出とか、後世まで残らなくていい。
いらない、と思ったらNGO団体に寄付して、世界の飢餓に苦しむ人々のお役に立ててください。

どうしてもなくてはいけないものではない。でも、私しかできないことがある。そういう仕事です。
無駄と思われることに夢中になれるのは貴重かもしれない。
平和な世の中が続くために必要かも!
生き方と同じように好みはそれぞれなのだから、批判も批評も色々あるはず。
権威ある人が認めたお墨付きで「いい音楽」があるのではなく、人それぞれが自分で好きな音楽を見つけていけばいいと思うから、世の中に選択肢はたくさんあったほうがいいですね。

神のメッセージが直接聞こえ、見えたヒルデガルトでさえ(?)、教会内で最高の名声を得ていた聖ベルナルドゥスや、教皇など、知識ある人に認めてもらおうと働きかけました。夢や幻想ではないか疑われるかもしれないし、もしかすると異端とみなされるかもしれなかったのですから。権威から承認を得るのは命拾いにもなるわけです。したたか!
神様のために生きるために、ただ禁欲的に自分を抑えるのではなく、品行方正にするのでもなく、人に尽くすだけでもなく。様々な学問や芸術における彼女に与えられた才能をフルに生かし、積極的に周りの人に伝え、修道院で文化活動をしていました。老いて体が動かなくなっても(現在みたいに快適な旅ではなかったのに)、使命を果たすために、聖職者の腐敗と戦うために旅行をしました。身体はずっと弱かった人ですが、力強く、信念のある(もちろん、信仰深い)女性です。
側にいたらなかなか大変、振り回されそう・・・。綺麗ごとじゃないです。欲のために生きなくても、綺麗さっぱりではいられない。
彼女はこの世でも(!)生きるために動いた人間です。

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2018年02月26日

古代ギリシャから

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原爆の図丸木美術館で「おきなわ島のこえ」の原画を見て、その美しさに感銘を受けた。
丸木夫妻の絵は反核、反戦、命の大切さを訴え、社会問題に警鐘を鳴らし理不尽なことに抵抗する人々に勇気を与え続け、芸術そのものではなく思想的な面を語られる場合が多い(絵や美術館の存在がそのようだ)。夫妻の絵の強さは、技術の高さ、つまり絵そのものが訴える表現の豊かさが土台にあるからだと思う。技術は表現力と分けられない。丁寧な筆遣いや色彩の見事さは、その技術を持っていたら誰でもあのように描けるか、心打たれるかというと、そうではないだろう。
私はどう生きるか、という日々の思考が行動や表現の原動力でもある。
「丁寧な仕事」は一歩下がって冷静に自分と全体像を捉える姿勢が必要だと、つくづく感じる。熱い想いがたくさん溢れても、気持ちが先走るのではなく、熱い心を持ちつつ丁寧であること!ため息・・・

器楽音楽の始まりは棒などで叩く、手を打ち鳴らす、地面を踏み鳴らす、など打楽器だったかもしれない。
歌は人が言葉のようなものの抑揚だったかもしれない。鳥の歌声、動物の鳴き声、木々のざわめき、海の波音、せせらぎ音を模倣したかもしれない。木の実を転がして楽器にしたり。
人が集まってコミュニティを作ると祭が生まれる。狩りの道具や武器が楽器にもなる、まさにinstrument。何も境い目はない。
呼び合ったり、日々の仕事の合図、作業の合間。弔いのための儀式もできる。嬉しい時、悲しい時、音や踊りは自然と生まれる。盛り上がってトランス状態になる。。。
数の概念は音程も生み出した。リズムを数えるためじゃない。
思考は一歩下がって冷静になることを教える。想いはたくさんで心は熱くても、思考と優れた技術がベースになければ、広く長く残らない。
思考は生活と音楽や仕事など、または人と人、国と国に境界をつくるためにあるのではない。全ては繋がっている。私が行動を起こせば、何か動く。息を、魂を吹き込めば、動き出す!

人は生まれて赤ちゃんのときから古代から現在に至る人間の歴史を始める。進歩、発展とは呼ばないことにする。
作曲家もルーツを辿る。
紀元前何十年に遡ればいいのだろう。何千年も前の壁画に残された楽器の絵から復元できるだろうけど、そんなものよりずっと昔から存在していただろう。聖書の世界も新しく感じる。言葉は鍵となる、まさにキーワード。
言葉ですぐに分類したくなるけれどもね。

クルタークの(独奏)器楽曲は音が極端に少ない。題名の謎。ハンガリー語だけでなくギリシャ語の詩。音で聴く詩のようだ。はっきり説明つかないことだらけ。
彼は様々な言語が話せるそうで、古いギリシャ語もできる、と知った。
あの音程や響きは古代ギリシャの音楽だった!

百年、千年と今現在を並べて音を出せるのだから。目に見える美術も見えない精神の表出。芸術、精神や思想は、時空間を超える。
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2018年02月11日

トスカーナの爽やかな風

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オリーヴの木で作られたまな板や器などのキッチン用品や、オリーヴオイルが置いてある店。ストラーダ・ビアンカSTRADA BIANCA。店主がトスカーナで出会った人々の人柄やオリーヴへの愛、職人への敬意、そしてトスカーナの爽やかな風を感じた。
ブランドとして有名でなくても、伝統を引き継ぎ、誇りを持って丁寧な、いい仕事をする人々がいる。自分が作る物、自分の仕事が人々の幸せになると信じる。
作品を作るための質のいい木はどこにあるか、木のどの部分を使うか、どうやって削るか。太陽と土と水に育てられる木、毎年出来が違う木の実、均質でないものを相手にする、これまた一人として同じでない人間。雑味のあるものは、奥深い味わいがあり印象に残る。自由な想像力で豊かな心の世界を広げ、人とつながる。平和を創る個々の日々の仕事。
そして出来上がった作品をいいと感じ、美味しいと思い、それを選ぶ個人がいる。作品に出会い、その歴史や話に興味を覚え、ますます好きになる。まっすぐ向き合う仕事における、その人にしかない工夫や過程は尊い。
その素朴さから気づくことは、ガット弦に共通する。
生きた素材を使いながら、狂いもない洗練を目指すことに無理があるのではないか。末端や目に見える表面に神経を尖らせるやり方で磨きをかけるのは、自然が本来持っているエネルギーを押さえ込み、人も楽器(道具)も苦しめるのでは。

オリーブの木はとても硬く引き締まっており、特徴ある節の模様があり、艶がある。
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これは松ヤニが入っていたオリーヴでできた箱。恐らく弓職人が作ったもの。

オリーブの木は乾いた明るい音がする。Accordoneが演奏するナポリ地方の音楽のCDを聴いていて、Pino de Vittorioが歌いながら鳴らすカスタネットに惹かれたのだが、これはガルガーノ(プーリャ州)の羊飼いから貰ったものらしい!なんて素敵な話!

そして、イタリアからは新たなインスピレーションを貰うことができる!
地中海の「風」!
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posted by makkida at 23:07| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする
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