2016年08月14日

調の性格

歌い手は自身の出る音域に合わせて移調する(調を変える)。
そこにはちょっとした問題がある。作曲家は曲の性格に合わせて何調にするか考えているのだ。17、18世紀の音楽家はそれぞれ、それぞれの調に性格を当てはめてきた。Cは太陽をイメージし、大胆で陽気、とか。有名な曲を例えると、モーツァルトの交響曲ジュピターはハ長調だ。もっともそれ以前のバロック時代の音楽家は、教会音楽を書くときに無関係ではいられない。
19世紀の作曲家はそれを踏まえて、より想像力豊かだ。
シューマンが影響を受けた作家・音楽家のE.T.A.ホフマンは、小説の中で調性から連想して語らせる。シューマンの歌曲は、調性の性格が明確に表れる。アイヒェンドルフの詩に音楽をつけた作品39の『リーダークライス』では、詩の言葉(から連想するもの)と合わせて、A (a) (イ長調またはイ短調)・E (e) (ホ長調またはホ短調)の現実の世界は、憧れのあの世を表現したF#(嬰へ短調と長調)に挟まれ、またはAとE調のなかで一瞬あの世の調に行く。『詩人の恋』の第1、2曲はF#とAの和音、fis:(嬰ヘ短調)とA:(イ長調)を行き来する。そして続く曲も、言葉や内容と調の響きがなんとぴったり来てイメージしやすいことか。
 ソナタやコンチェルトのソナタ形式では、長調の場合は第2主題が5度上の属調になるが、短調では第2主題は平行調(#やbが同じ数の長調)に、展開部を経て再現した時には、同じ調か、あるいは同主調(主調と同じ音から始まる長調(イ短調の場合はイ長調))になるのも、音楽の性格や雰囲気が表すものと合っているわけだ。
シューベルトのアルペッジョーネソナタの初めのAの音を開放弦で弾いた時に表れる独特の脱力感。隠すことのない孤独感と痛みの混じった無力感と感じることもある。『冬の旅』のA:(イ長調)は幻を暗示する・・・。
歌は楽器と違って自在に調を変えられるじゃないか、と思うのはごもっとも。楽器と一緒に演奏する時に調の色彩がわかりやすくなる。
フィッシャー=ディースカウ氏も、『美しき水車小屋の娘』での小川のせせらぎの効果は、より低い調にしすぎると難しくなるため、決して短3度を離れてはいけない、と書いている。
 弦楽器では開放弦をよく使うG,D,A調までシャープが増えると響きが明るくなる。より多くなると運指が難しく弾きにくくなるのもあって、素直な響きから遠ざかる。Cは何もつかないから素顔のようにシンプル。#やbが多くなると響きが曇る。鍵盤楽器奏者は調律の仕方を何種類も工夫してきた。ある調律法にするとある調の和音がどうしても濁って弾けない、なんてことも現れる。
なんでも出来るのが平均律。何調でも弾けるというのは利点。
一方で、なんでもできないから、性格がはっきり表れて、より弾きにくく、個性が出る。

全てがきれいすっきりに分類などできないが、ひとつひとつ丁寧に見ていくとなんと多くのことが読み取れ、感じ取れるのだろう。なにより大事なことは、音で表現するということ。それはなんと簡単にはいかないことか!
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2016年08月12日

Hindemith

初めて聴いたときの印象に恵まれなかったのが理由で、気になるけどずっと手をつけてこなかった作曲家や作品がある。ヒンデミットがその一人。特に嫌いではないのに、オーケストラ作品は除いて、ソロや室内楽は縁がなかった。遊び心が現れている、演奏時間1分の短い二つのチェロのための曲は近年弾いているが。
久しぶりに無伴奏曲の楽譜を開いたら気持ちが動いた。それほど苦手でも、合わなくもない。
9月に作品25の無伴奏チェロソナタを弾きます。
年明けには、ピアノとも共演する予定。民謡を主題に使った「求婚に出かけた蛙」と、葬送音楽(原曲はヴィオラと弦楽オーケストラ)。
機会が作れれば、今後、ピアノとの数曲も弾いてみたい。
チェリストならレパートリーに入れるべき(?)作品11のソナタはまだ手をつけないつもり。どちらかというと、世に出回っているセカンドヴァージョン(1921年)より、初めに書かれた1919年版の方が気になる。
数年前、ピアニストのファジル・サイ氏がチェロパートしか現存していないファーストヴァージョンを復元したそうだ。楽譜が高いけど・・・いつか。
http://www.hindemith.info/en/institute/publications/hindemith-forum/hf-28-2013/interview-fazil-say/
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2016年08月11日

Bの感謝

重い病が峠を越したあとに感じる素直な感謝。心の病も、治らない病だとしても、昨日よりは軽くなったときの気持ち。Beethoven op.132 "Heiliger Danksgesang" 硬くなっていた頭が柔らかくなって、涙が出て癒されるような音楽。心からの親密さを持って、神さまありがとう、という。クライマックスでは演奏しながら天上の光に包まれる・・・!
1825年の3月、ベートーヴェンは作品127の弦楽四重奏曲のシュパンツィヒ四重奏団の初演が失敗したのに懲りて、演奏者とリハーサルをし、なんとか公開演奏を成功させようと心血を注いでいた。音は聴こえないのに、演奏者の弓使いやテンポなどに細心の注意を払って演奏を一緒に仕上げていったのだった。あの知る人ぞ知る言葉、「精神が私に語りかけているときに、君のヴァイオリンのことなど考えていられると思うか」は、このときに言ったのだ。無事に公演を終え、翌月、作品132の四重奏曲に取り組む最中、体調の不良で寝込んでしまう。5月半ばにようやく危機を脱し、この「病から癒えた者が新たな力を感じ、神へ捧げる感謝の歌」を書く。


Heiliger Dankgesang eines Genesenen an die Gottheit 18:43
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2016年07月29日

300年続く”いのちのパン”

1700年前後、イタリア北部で活躍したA.コレッリ。彼の合奏協奏曲は当時も、またのちの音楽家にも影響を与えた、欠くことのできない糧だった。
Amandine Beyer & Gli Incogniti - Corelli, The Complete Concerti Grossi
この演奏は、まさに生きる糧のよう。楽器それぞれの性格や音色、高音楽器だけでなくバスも饒舌でリズミカルで、空気感のある響き、情感溢れる和声感を持った響き・・・。ライブ録音ならではの新鮮さと輝きを持つ。いい音だ。こんな弦のアンサンブルをしたい!
当然のことなのだけれども、合奏のメンバーには色んな国の人がいる。大勢で合わせた時に予定調和にならず、何か思いもかけない素敵なことが起こったり、意外な展開になって、いい意味で刺激的であるのも、それが理由の一つではないだろうか。色んな境遇の人々の集まりであると、ハプニングだってあるだろうけど、いい音楽をしよう!という明確な目的を成し遂げる、その本番では、とてつもないエネルギーが生まれるのかもしれない。
posted by makkida at 21:34| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする

2016年07月27日

Chopin- Erard 1849

テクニックというものは、出したい音、やりたい音楽のためにあるものだ、ということを改めて気づかせてくれる。「いい姿勢」「指先で弾く」「正しい」・・・とは?意味の捉え方の違いがあるように思える。耳で聴こえるものは心(脳)へ、そして内面世界と宇宙と繋がり、指先へ神経が通う。音は指で出すもので、手に心(感覚・感情)があるのだ。そして自由自在に動く、リズムや感触の身体表現!ときに休んでリラックスしたり、柔らかく滑らかに、ときに叩いたり、軽やかに駆け回ったり、跳ねたり・・・。
熱い心を持ち、音楽に入り込む、真の芸術家。
こんな風に楽器が弾けたら!
Janusz Olejniczak - Frans Brüggen - Orchestra of the Eighteenth Century

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2016年07月24日

Steinway, c.1900

京都のカフェで1900年初頭製のスタインウェイに会う。オーナー自身が部品も古いものを手に入れて修復したという。
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photos by Shinichi Kida
蓄音機でSPレコードも聴かせていただく。フォイアマンの弾くレーガー、ハイフェッツ&プリムローズ&フォイアマンのドホナーニ。音域による違い、音の存在が目に見えるよう。演奏者の弓使い、弦に当たり方、ヴィブラートの種類も明瞭。カザルスのレガートの音の、まるで絹のようななめらかさと、光り輝く軽やかさに感動!片面4、5分内に録音を収めるための、集中した演奏家たちの芸術的な技術!
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2016年07月07日

7月17日(日)デュオコンサート@大阪

7月17日(日)に大阪は交野市の住宅街にある隠れ家のような空間で、現代の作曲家、関西在住の近藤浩平氏の作品を中心にした室内楽コンサートに出演します。福島の子どもたちを支援するコンサートで、私がずっと弾き続けている「海辺の祈り」の作曲者でもあります。今回は氏のヴィオラとチェロのための独奏曲と二重奏曲を集めた個展です。
共演は、大阪や岡山で活躍中、最近大フィルの首席奏者に就任した若きヴィオラ奏者、木下雄介さん。
春に一緒に音出してみましたが、音も息も合うようで楽しみです。
彼はガット弦でピリオド奏法をヨーロッパで学び、今に至るまでずっと続けていますし、私もガット弦を張った楽器で演奏します。今までの近藤氏の作品の演奏者とは響きがだいぶ変わってくるでしょう。近藤氏作品をずっと聴き続けていらっしゃる方はもちろんのこと、初めての方にも聴きやすいと思いますので、よろしければ是非お越しください。
そして、このデュオの記念すべき出発点を、どうぞお聴き逃しなく!
D61_4839.jpgD61_4845.jpgphoto: Shinichi Kida

2016年7月17日(日) 15時開演(14時30分開場)  
星誕音楽堂 (大阪府交野市星田1-36-18)

近藤浩平:
ヴィオラとチェロのための2重奏曲集 作品78
「先人たちの古い野営地」無伴奏ヴィオラ版 作品156b(ヴィオラ版 初演)
海辺の祈り〜震災と原子炉の犠牲者の為への追悼 作品121(チェロ版)
源流への旅 作品143−e (ヴィオラ版 初演) 
鴨川源流への旅 作品150−d (チェロと打楽器版 初演)
L.v.ベートーヴェン:ヴィオラとチェロのための二重奏曲 変ホ長調「2つのオブリガート眼鏡つき」

入場料:3000円
予約・問合せ: contact@koheikondo.com  TEL/FAX 0798-54-5006
詳細は近藤氏のHPでご覧いただけます
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2016年06月30日

創造

川崎市岡本太郎美術館にて「岡本太郎が愛した沖縄」展。
音楽は目に見えないけれども、美術も、目に見えないものを見えるようにするものなのだと思った。
音楽が好きで、ピアノは自分で弾けるようになったそうだ。
習わなければできない、なんてことはない。自分の内に弾きたい音楽、弾けるイメージがあれば、独学でいい。
弾きたければ弾く、描きたければ描く。
外から、肉体は形として見えるけれど、思想や想像など頭のなかは見えないのであって。自分の内に見えているものが音になり、色になり、形になり、作品になる。
行動や使う言語は思考とつながる。目には見えない大いなる自然の力によって原動力をいただく。
人はただ「人」。職業は「人間」。
この人はエネルギーが迸り出ているようなイメージだが、作品の勢いは額縁の外や立体の外には飛び出ていない。彼の身体のなかから湧き出た「物」として存在する。発する言葉の水面下にはどれだけ多くの思想があったとしても、たった一部分だけ姿を現し、完結する。全身が脳みそのようなのに、見せるのは目だけ。もしかしたら見えているのは、自分の内から外へ出て行くものと、外の世界から自分にやって来るものがぶつかった場所なのかもしれない。
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2016年06月09日

音楽が身体に調和をもたらす

コダーイ・ゾルターンのことば。

幼児期に平均律のピアノの伴奏をつけてうたうことは、子どもの耳を鈍感にし、調子をはずさず正しい音程でうたうことに導いてはいかない。

リズムは、注意力、集中力、決断性、神経を統御する能力を発達させる。
旋律は感覚の世界の扉を開く鍵であり、強弱の諸段階と音色はわたしたちの聴器官の感度を高める。
そして歌をうたうことは、からだの多様な部分の運動を意味する。

今の時代の機械文明は、わたしたち自身も機械化してしまう。その運命からわたしたちを守るのは、うたうことだけである。

人類は本当に音楽の価値を知るときに、より幸せに生きられる。
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2016年06月05日

芸術が形になるとき

オディロン・ルドンのことば。

・・・私には人が「譲歩」と呼ぶものがまったくわかりません。人は好きなように芸術をやるのではないのです。芸術家は来る日も来る日も、彼をとりまく諸事物の受信機です。彼は外部からさまざまな感覚を受けとり、それをただ自分の命ずるままに、宿命的で、妥協を許さない、かたくなな道を通じて、変形するのです。本当に物が作り出されるのは、発露の必要から人がなにか言うべきものを持つときだけです。私は、季節季節も彼に働きかけるとさえ言いたく思います。手さぐりや体験が彼に明かす、こういった影響の外で試みられたしかじかの努力、しかじかの試みは、もしこれらの影響を無視するなら、彼にとって実り少ないものです。


 芸術作品というものは、芸術家が提供する感動の酵母だ。一般大衆がそれをどう扱おうがそれは彼らの自由だ。ただ、愛をもって接してくれさえすれば。
『私自身に』


芸術作品は三つの源泉、三つの原因から生まれる。伝統、現実、個人の創意、この三つである。
『私自身に』


 芸術家は聖なる権威を持って、自分が他のものよりもはるかに上位にあると考えてはならない。創作のセンスというものは、すでにしてなにがしかのものだが、それが全てではない。ある人はまったく平凡で、美を感ずることなど到底できないほどだが、優れて意識の高さ、高貴さを示すことがある。ベートーヴェンと芸術の神が生を振り蒔く世界に生きられることは、天に感謝すべきだろうし、特にそれを理解することができることを誇りに思うのは、当然だ。だが、そういうことによって人より優れたいと思っている人々のまったく自分勝手な苦悩は、エゴイストで凡庸なものだと思う。
『私自身に』

                                        
 こと芸術に関しては、私はどんな党派、なんの流派にも属さないし、属したくもない。しかし精神の公正さというものがあって、どこにあろうと美しいものがあれば、それを称賛し、美しさを理解できる人に、美を伝え、説明したいという欲求を課す。
 私は非妥協者ではない。私がある流派に喝采することはけっしてない。誠意を持ってどんな流派を推奨されたとしても、流派は過去を考慮に入れず、純粋な現実性の中の限られた存在でしかない。
『私自身に』


 私が喜んで願うことは、もはや戦い合うことではなく、闘うならば生の充実のためであるような世界を見ることだ。賛嘆と憐れみによってのみ侵略され、その砲弾は最良の、聖なる大地の果実であり、人間と神のすべての産物、それに芸術と理解の及ぶ範囲の思想と科学、あるいは善の書物、それらすべてが一つであるような世界を。
『私自身に』

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2016年05月25日

ギャラリーコンサート第2回プログラム

ギャラリー「ときの忘れもの」さんでのコンサート、第二弾です。

「J.S.バッハへ〜チェロとギターによるソロとデュオ」
日時:2016年5月27日(金)18時
出演:富田牧子(チェロ)、塩谷牧子(ギター)
プロデュース:大野幸

J.S.バッハ(1685-1750):無伴奏チェロ組曲第2番二短調より プレリュード (ca.1720) +
V.シルヴェストロフ(1937- ):1750年7月28日・・・J.S.B.の思い出に (2004) +
H.ヴィラ=ロボス(1887-1959):ギターのための12の練習曲より  第8番(1928 or 1929)*
F.プーランク(1899-1963):ソナタ[原曲:ホルン、トランペット、トロンボーンのためのソナタ](1922)
A.ピアソラ(1921-1992):『タンゴの歴史』〜「カフェ1930」  (1986)
Z.コダーイ(1882-1967):無伴奏チェロソナタ作品8より 第1楽章  (1915) +
E.ブロッホ(1880-1959):『ユダヤ人の生活から』〜「祈り」 (1924) 
J.S.バッハ:無伴奏組曲第6番ニ長調より サラバンド +

+はチェロソロ
*はギターソロ

それぞれ独創的で、表情豊か。美味しい具がたくさん入ったサンドイッチのようなプログラムです。
ウクライナの作曲家シルヴェストロフのソロ曲を初めて弾きます。この人の《静寂の歌》にはタラス・シェフチェンコの詩による曲があります「さようなら、おお世界よ、地球よ・・・」。鎮まった水面を想像させる響きがあり、言葉は樹々のざわめきのように聴こえます。
久々のデュオでピアソラ。ガット弦で弾くと心のひだが深くなるブロッホ。
プーランクを弾くといつもその魅力に夢中になってしまう。シンプルな旋律、複雑な和声、そっけないけど甘えん坊、愛情が強く、静けさと元気いっぱい、敬虔でもあり、俗っぽいのもあり、真面目だけど悪戯好き・・・そのどれもがセンスいい。

毎日こんなアンサンブルやっていられればいいのに!
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2016年05月24日

続 空気の振動

リズム感も空間で感じるもの。
平面上で点と点の間を分割するものではない。複雑な、混み入った「リズム」を枠の中で計算するのではない。手で押すのではない。自分の頭や指先だけで出来るのではない。
空中に放ってすとんと落ちる場所が次の点。
初めの音が出る前に、それに合ったエネルギーの高まりがある。そのテンポで合図して、息を吸えばその音が出るのではない。
次へ、次へ、続いていくリズム。
脈拍のように全体を流す拍感。
全体の空気の揺れがリズム感。
生きている呼吸の中で、見せようとする無理な身構えも無く。ただ、イメージする音の分だけのエネルギーが必要。それが身体と一体になる。足取り、手の動き、身体のほんの一部でもリズム感はわかる。気持ちがないと生きない。エネルギーが無ければリズムは死んでしまう。
息の(弓を使う)量、息の(運弓の)速さ、ヴィブラートの種類、指を下ろす速さ、動かし方・・・響き、音色を決めるリズム感。

街は人ぞれぞれのリズムをまとった人たちでいっぱいだ。
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2016年05月21日

まるで新しく生まれたような

お互いの魂が出会ったような。
初めてのデュオで、細かい所でちょっと違和感があったとしても、それぞれの音楽は終始途切れることなく流れ、一緒に進み、最後でお互いの心が充足し、音が溶け合う。たとえ超有名天才演奏家同士だって、技術がぶつかり合うパフォーマンスで終わるのではなく、満ち足りた気持ちになる音楽はなかなかできないのかもしれない。
H.Grimaud & M.Vengerovのデュオ。
脱力して自然体な身体から出てくる音は、それがどんなに超絶技巧でも、聴き手の身体を楽にしてくれる。
彼女が弾くとどの曲もいままでに聴いたことのない音楽に聴こえる。新しい音楽になる。聴こえたことのないものが聴こえる。
その左手の響きは、まるで別の人の、低音楽器が弾いているような存在。鋼鉄のフレームのグランドピアノということを忘れてしまう。
彼女には何が見えているのだろう・・・。

一からやり直す、というのはそう簡単ではない。新しく生まれる、生まれ変わるには、思考の癖を意識して捨て、思考回路を新たに切り開く。技術をやり直して、身体と音が明らかに変わってきているけれど、長年の考え方は単純でないので、世の中でやっていくにはなかなか上手く進めない。
なにか、例えば音楽的な出会いなどで、潜在的なものを呼び起こされて、急に変化が起こることがある。自然界の力によって身体が蘇ることがきっかけになるときもある。少しずつ、動きがないように思えるほどでも、気がつけば遠くにいることもある。己れのなかの変化においては、一貫していれば目指す方向には進める。
世の中で・・・となると、「狼と意思疎通ができる」というようなことを話したり書いたりすることが助けになるのだ。学歴や経歴で評価しないでほしければ。
何を大事にしているか、何が見えているのかは、言葉でも音でも、なかなか本人以外にはわからないもの。

違和感を持ちつつ。
抵抗を感じつつ。

どんなに小さくても、弦と弓の毛が接するところの摩擦、抵抗を感じなければ、音は広がりや色彩を持たず、心に伝わらず、高圧的で暴力的な力に丸呑みにされてしまう。
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2016年05月04日

6月4日 丸木美術館コンサート

新緑の眩しさが身体を生き返らせてくれるようなこの季節、熊本の地震の被害は痛ましく、自然と共存する難しさを考えさせられる毎日ですが、いかがお過ごしでしょうか。
来る6月4日に、故丸木位里・俊夫妻の原爆の図がある丸木美術館でコンサートの機会を頂きましたのでご案内申し上げます。
人間同士の無理解により、分断と破壊が絶え間なく続く世界。私たちがあらゆる民族や時代の音楽をできるのは、平和だから。それを手放さずにいたい・・・。
自然に囲まれた丸木美術館で丸木夫妻の絵に触れ、厳しさだけでなく、大地の包容力を思いました。民謡を土台にした、独自の音の身振りを持つハンガリーの20世紀の音楽をすぐにイメージしました。それを現代の様式の楽器で。バッハはバロックの様式で。素朴で豊かな表情を持つガット弦を張った、2台のチェロを使います。生命力溢れるパーカッションとのアンサンブルでは、自由な音の世界に心が解き放たれるように、と願います。

選んだ曲は、私の中に潜在する音楽や、希望とする音楽の在り方に直結するものです。
チェロを弾くときに、宇宙や世界と私の内面がぴったり一致し、広がっていくのが可能なコダーイ。美術館の学芸員岡村さんからリクエスト頂いたバルトーク。バルトークを弾くなら、ピアノとではなく、元々の民族音楽の本質的要素を出せるパーカッション、しかも軽やかで力強いエネルギーを持つリズムと、魂の音を打ち出すコスマス・カピッツァさんと。
ジョルジュ・リゲティはトランシルヴァニア(現ルーマニア)生まれのユダヤ系ハンガリー人でした。両親と兄弟をアウシュビッツに送られ、戻ってきたのは母親のみ。戦後ブダペストで音楽を学び活動を始めるも、旧ソ連の支配に人々が蜂起した動乱が起きた年にハンガリーから亡命し、西側で活躍します。チェロソナタは、まだハンガリーにいる頃の、民謡の要素が濃く残る作品です。
これらの作曲家が強く影響を受けたJ.S.バッハの、特に内面的な性格を持つニ短調の無伴奏組曲と合わせて、そのほかにもパーカッションとの即興的な演奏も予定しています。

音から受ける印象を皆さまそれぞれの方法で味わっていただきたいので、曲間の説明などは最小限に抑えたいと考えています。

場所は駅から遠いのですが、もしよろしければお誘い合わせの上、ぜひお越しいただけましたら幸いです。
ご予約は美術館、または私へ、ご連絡お待ちしております。

展覧会のご紹介はこちらをご覧ください。チラシもご覧いただけます。

6月4日(土)14時
原爆の図丸木美術館 富田牧子チェロコンサート
共演:コスマス・カピッツァ(パーカッション)
場所:原爆の図丸木美術館(埼玉県東松山市下唐子1401)
詳細はこちら
プログラム
J.S.バッハ/無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調
Z.コダーイ/無伴奏チェロソナタより 第1楽章
G.リゲティ/無伴奏チェロソナタ
B.バルトーク/ルーマニア民族舞曲・・・・・・ほか
ご予約・お問合せ:丸木美術館 TEL 0493-22-3266 FAX 0493-24-8371 E-mail:marukimsn@aya.or.jp
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空気の振動


https://youtu.be/MNczOJVBhnQ
二人のデュオが楽しそうだったので、つい。チェロの音と一緒にいるエレーヌ・グリモーのピアノの鳴り方がとてもいいので、見てみると、やはり低音の周波数帯を壊さないように気をつけている、と言う。ただ「音を聴く」のではなくて、空気の振動を聴きたい。ピアノは音の数も多いし、音量もパワーもあるから、相手の出している音の振動を止めることは容易だ。もちろん、弦楽器同士だって頻繁に起こりうる。二人ともあんなにエネルギッシュだけど、大切にしているのは空気の動き。素敵だ。
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2016年03月20日

沈黙

沈黙の音楽。
沈黙は聴くことである。
 ジョン・ケージにとって沈黙とは、今自分がいる環境のすべての音である。それぞれの音に関係はない。作曲家はそれを(どんな音がするか)意図しない。もしかしたら鳥の声が聞こえるかもしれない。車の走り去る音、人の声など、環境のなかに偶然現れるあらゆる音が存在する。
〈4分33秒〉は「演奏」されるときのみ生きてくる作品。それはまさに芸術音楽のあるべき姿ではないか!?
この、楽器が弾けなくても、一人でも「演奏」できる作品のいい点は、みんなのための音楽であるということ。
 クルターク・ジェルジュの音楽の中で感じる沈黙とは、音と音との(聴こえない)繋がりを聴くことである。途中から弾くのは意味がない(どの芸術音楽でも当然なはずなんだけど!)。
また作曲家によっては、その時間を意図的に作るときもあれば、その場に任せるときもある。
 はたまた、尾高惇忠氏の〈瞑想〉は、瞑想をするときの沈黙の状態の心の動きを音に表した作品である。
空間や余白でそこに無いものを想像する絵のような音楽もある。

〜2016年3月19日ギャラリーコンサート@ときの忘れもの
posted by makkida at 11:49| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする

2016年01月30日

double M 二人の詩人

率直でリアリティのある詩人たち。
アフリカの躍動するリズムに乗せて、人権を踏みにじる独裁政治を、暴力を受け痛めつけられているリアルな人々の姿を語る(というのか歌うというのか)Mzwakhe。この音楽にみなぎる生命。
Jonas Mekasの映像では、彼の頭にあるイメージがカメラの目線を通して見える。語られる言葉と映像の断片はそのイメージであるから、つながりがあって、リアルな体験であり、全体が詩となる。
美術や映像、詩、ダンスからインスピレーションを受け、私は音楽によって聴く人にインスピレーションを与えられればと願う。
ひとつの作品の中で、音ひとつひとつが制約がなく、いろんなレベルで動ける可能性がある。バランスを保ちながら。
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2016年01月29日

John Cage pour les oiseauxから思うこと其の一

初演があってその複製がある(聞こえがよくありませんかね。悪い意味ではありません)。その複製はその度に新しくなる可能性がある。体験を忘れる、忘れる、忘れる。
世界はアメーバのように動いている。安定して「在る」のではなく。人間も日々刻々変化しているように。いや違った、人それぞれはその「世界」と同じではない。
音楽は演奏される度に、際どいバランスでその瞬間存在するだけであって、安定した美が「在る」のではない。
音と音は関係性を持ったり、なかったり。まとまったり、個々で存在したり。初めに個であるかどうかだって分からない。関係を説明すると安心するのか。
全く新しいものはない。それぞれ違うだけだ。変化しているだけだ。当然、毎回新たになるだけだ。
こうやって言葉を発していると「固定」されてしまう。いや、固定しているのは私の頭だ。
そのとき、そのとき、毒にも薬にも変わることができる。


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2016年01月27日

沈黙と空間

空間や沈黙は、物の輪郭を生かし、物の存在を明らかにする。
身近なものへの慈しみ、素材への愛情。
ただの金属ではなく、人を殺す道具でもなく・・・フリオ・ゴンサレスが手を触れると金属には精霊が宿り、芸術となった。彼の手から、思考から、彼自身から生まれた物を、目の前にできる幸せ。
私のなかのモヤモヤとした物が沈殿されていく。
真実を現す芸術は、人を癒し、希望を与える。
技術も技法もそれを可能にするが、芸術のために平和のために、という本質から始まる。そして、いろいろ見方を変えてみるのも、アイデアを試すのも、真実に近づくため。

クルタークとジョン・ケージの沈黙は意味が違う。
ケージの沈黙は、聴衆が演奏者になる。そこには全ての音がある。鳥の鳴き声、車の音、お腹が鳴る音・・・。
クルタークの沈黙は、演奏者の魂が決める。無いところに、音と音のつながりが見える。
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2015年07月07日

「デュオ、トリオの愉しみ」終了

「デュオ、トリオの愉しみ」は梅雨の晴れ間のなか無事終了しました。
 2012年に三人で演奏した時同様、今回もまたJ.S.バッハと20世紀の音楽を取り上げました。特に、第二次世界大戦中ナチスに追従しなかったことで、ヨーロッパにいられなくなった作曲家を選びました。反対すれば殺されるかもしれない独裁主義の中で、居場所を見つけようと努力し、時に抗い、葛藤し、立場や行動を白黒明確にできなかった時代。「国のため」にならない音楽は退廃だ、という差別がありました。権力者による優れた芸術とするものの根拠のなさ、理由の陳腐さ。その判断に翻弄される芸術家。
 そんな凶暴な時代に、個人の小さな創造的な仕事を続ける意味は、とてつもなく大きい。彼らは不安や怒りをユーモアや愛に変換させました。その芸術は、体制には反対するが人間を否定しない、そして生きることの表れです。思考を止めなかった多くの音楽家たちによって生まれた作品が消されずに残り、今、演奏できることの奇跡を思います。

・・・奇跡、とプログラムには書きましたが、やはり、ひとりひとりの意志でしょうね。
そして、芸術は制約がある中でも無限の可能性があり、個人の精一杯の自由を表すものです。
 
ご来場いただけなかった方々からもたくさんのお励ましのお便りをいただきました。感謝申し上げます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
posted by makkida at 10:05| あんなこと こんなこと | 更新情報をチェックする
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