2020年07月26日

楽器に聞く

KIMG1755.JPG
また雨、まだ雨。よく降ります。ものすごく蒸しているこの頃。梅雨はいつ明けるんでしょう。。。
カラッとした空気が早く来て欲しい。

こんな本があります。
KIMG1863.JPG
300年、400年前に作られた弦楽器はただの道具ではなく、生命を感じます。
イタリアのどこかの工房で生まれ、人から人へ誰か演奏家に所有されて、宮廷やサロンやコンサートで優れた演奏者によって弾かれたり、アマチュア奏者が家庭で楽しむためだったり、弾き手によって出される音色も変化してきました。その度に様々な状況に置かれ、戦争をかいくぐって。零下何十度で弾かれることもあったかもしれないし、高温多湿のアジアにやってきたり。

昔から名器を模倣して楽器つくりを学ぶ、ということを楽器職人はやってきました。何百年も前のオリジナルの名器は数が限られていますし、いい状態で残っているオールドの楽器は値段が高くなります。弓も同じです。
いわゆる古楽復興が起こって以来、古い弓や楽器を現代の楽器職人がコピーして作ったものを多くの演奏家は使います。
バロックヴァイオリンとかバロックチェロと呼ばれるものは、ヴィヴァルディやバッハの生きていた頃に現存していた楽器をそのまま使っている、というのではありません。古い楽器は19世紀20世紀の音楽様式に合わせて、楽器は調整され、修理されて今に至っています。ネックの角度、指板の長さや幅や太さ、駒の形など、本体(胴体)以外は、時代の変化に合わせて調整されています。それを、バロックのスタイルに戻した、ということになります。
もちろん、現在の楽器職人による新作の場合もあります。
古い文献を学び、研究して、その当時のものを作ることは職人にとって大事な仕事です。
演奏家もにとっても同じように大事なことです。それだけでなく、演奏技術も楽譜や文献から学び、想像し、探求します。

頭で理解するだけではなく、演奏家にとって忘れてはならない、とても大切な感覚があります。
それは、生命を持つ楽器から学ぶ、という作業です。

楽譜や文献は読めますが、どんな音が出ていたか、実際の音はわかりません。楽器や弓をそっくりにコピーしても、音は誰にもわからない。推測しかできません。正しい答えはない。
昔の演奏技術を知っているのは、古い楽器ではないだろうか?
1600年代1700年代に弾かれていた楽器は、当時の演奏家の技術や音を覚えているはずです。

特に弓の動きについて、楽器に聞きたい。

ヴァイオリンを弾くときの弓の動きは、ダウンボウは重力に従って腕の重さでストンと下へ落ち、アップボウは上に向かいます。天に向かって上がり、地面に向かって下がる。イメージしやすい自然な運動です。
チェロは横の動きです。この楽器は、演奏者の意思がとても大事なんだとつくづく思います。自然に任せていたら弓が手を離れて落ちてしまう。横に動かさなければ音は出ません。
新しく作られたばかりのバロックボウを使うとき、楽器が自分の言葉を喋るためには、人間がどう考えているか(何もアイデアがないか)、何をしたいか(あるいは、どうしたいかわからないとか)、顕著に現れます。新しい弓でも喋り方は教えてくれるかもしれない。でも、音楽の中身、内容はどうだろう。
オールドの弓は音の種類、表現の種類、深さがあります。演奏家が知らないことを知っているのです。

ああ、完璧な組み合わせなど無理!
試行錯誤をしながら、楽器とともに学んでいくしかないのです。
posted by makkida at 23:40| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2020年05月16日

技術を常に新たにする

KIMG1635.JPG
義母の実家、義伯母でチェンバロ奏者だった有賀のゆりさんの遺品の片付け…というより、改築前の一族の引っ越し。昨日引っ越し屋が大量の荷物を運び終わったところ。でもまだ家の中は空になっておらず・・・(笑)処分するものが山積み。今日は、バッハのフーガの技法をCDで聴きながら、リサイクルに出せそうな家具を磨いているところ。
さて、遺された物とは。
音楽学や中世から近現代に至る音楽史、作曲家に関する膨大な本、楽譜、レコード、自身の演奏の録音(オープンリールテープも)、アメリカ留学以前からの勉強したノートや資料、学生に教えるための資料や試験問題(!)、自身の論文や書き物、手紙、写真、共演した海外からの一流音楽家とのコンサートや地元の若い音楽家のコンサートのプログラム、使っていない原稿用紙やタイピング用紙、ハガキや便箋も・・・。

大人物は、後に残るものをどうするか心配せずにどんどん溜められるのだ!捨てることを考えて買い物をするのは小物だなぁ、なんて思ってしまう。私もまだ処分することよりも自分に取り込む欲を持たないと、と励まされる(笑)。
KIMG1723.JPG
それにしても、すごい勉強量。
敗戦後数年で留学したアメリカでは、専攻のピアノ以外に、音楽学や音楽史、和声など基礎を学んだあと、パーセルの研究で論文を書きマスターの学位を取得。丁寧に記されたノート(日本語、英語、ドイツ語)が残っている。合唱の楽譜も大量にあるのは、のちに日本で音大や教会でクワイヤ(合唱)指導をすることにも繋がっているのだろう。
それから、ピアノソナタをオーケストレーションしたり、べートーヴェンの作品18の弦楽四重奏曲の楽曲分析をした跡が。
十二音技法の音列をたくさん挙げたノートも見つかった。のゆりさんがシェーンベルクなどを演奏したかどうかは知らないが、当時、半世紀前の音楽はまだ新鮮だっただろう。
プロコフィエフ、バルトーク、ヒンデミットにも興味があったのではないかと思うが、やはりバロックや古典の音楽に回帰し再発見をする音楽家として納得。
広がりを持った勉強し、レポートをまとめ、演奏や文を発表し、教授活動をし、様々な人とアンサンブルすることは、人間と表現の幅を豊かにするのだと思う。
演奏家にとって最も大事なのは楽器、それから楽譜(作曲家の自筆譜)。
特に、楽譜を読んで頭で音を鳴らすこと。結構偉い先生でも、録音されたものばかり聴いて勉強する。が、生で聴くのとは別のものであり、特にアンサンブルやオーケストラはCDのように全ての楽器が明瞭には聴こえない。生演奏では立体的に、奥行き(表に出る音と陰の音など)がある響きになる。生きた音とは、演奏する人の呼吸、空気の流れ(早さ、遅さ)、聴こえない音も含めたエネルギーだ。
よく誤解されているのが、アンサンブルができるイコール「なんでもいつでも合わせられる」という考え方。発音、音の消え方切れ方、膨らみ方、つまり縦が合えば、いいアンサンブルになるとは私は思わない。音楽が続く間は、演奏家同士のエネルギーが一緒に流れていく、その見えない波動の合い方が、結果、ぴったり合うアンサンブルになるのだと思う。

話が逸れた。

自分が学生だったときに教わったやり方で何年も教え続けている先生もいる。そういう人が、今、有名な人の演奏を聴いて、この人のように弾けるようにしなさい、と生徒に言うのは怠惰だ。今の流行を表面的に捉えて次の世代に伝えたところで、芸術の本質が何百年も伝わっていくだろうか。

もし、演奏で商売をしたり芸能人になるより、芸術の道を孤独に歩みたい「変わった」人ならば。一つのことから次々に興味が広がり、理解が深まる勉強に夢中になり、演奏に繋がることに喜びを覚えるなら、コンクールを受ける必要はないと思う。余力があればコンクールを受ければいい(もしくは賞金をもらうため)。
自分を伸ばす方法はたくさんあるはずだ。大学の名前や権威ではなく、信頼おける人を見つけて、没頭できることに突き進んで行ったほうがいい。幅の広い、生きた勉強と研究がしたければ、日本の音大に行くよりも海外に出てしまうほうがいいと思う。もし自らがそれを望むなら。

先生は万能ではないのだから、わからないことや苦手な分野はある。ある作品の技術や知識を教えるのが無理な場合もある。その分野に詳しい他の先生を紹介したり、本や様々な機会を勧めるには、先生自身が常に勉強を続け、能力や技術を磨き続けていないとできない。そのように、心の開かれた、信頼できる先生と出会った人は幸せだ。

偉い先生についたら上手くなれるのではないし、成功のレールに乗れるのでもない。
音楽史上、時代の変遷、社会の変化とともに音楽の様式が変わり、演奏技術も発展してきた。あちこちで個々人が新たな技術を考え身につけて、生徒に伝え、他の演奏家に影響を与えてきた。
それでは、時代とともに人間は進化してきたのか?人は常に新しく生まれてくるし、いつの歴史も繰り返す通り、それぞれが自分自身の技術や能力を育てなければならない。育つ環境や土台の有る無しには、少なからず差があるけれど、前の世代に大天才が偉大な仕事をしても、「私」はその技術は持っていない。誰でも新しく技術を発見し伸ばしていくことができる。






posted by makkida at 11:02| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2020年04月27日

意識と身体の疲れ

KIMG1623.JPG
最近、PCで作業を長時間した後、人先指が痛むようになりました。時間を忘れてPCで調べ物していたからか。
以前、マウスを使っていたときは、例えば、チラシ作成をすると手首の痛みがひどくなったので、トラックパッドになって楽だ〜、と初めは喜んでいたのですが・・・。検索すると同じ症状の人、多いようですね。腱鞘炎にならないようにしよう。

一昨年作った味噌が結構上手くできたので、今年も作ろうと思って、有機大豆を買っておいた。やっと、仕込み完了!麹と大豆を混ぜるのが気持ちいい。そのせいか、手がスベスベ。
煮た大豆をビニール袋に入れて空きビンを使って潰そうとしたが、袋が破けたので、結局マッシャーと擂り粉木で。おかげでずっと親指が痛い。
KIMG1620-s.JPG

身体が痛くなると、使い方を意識するようになります。膝が痛む時、地面に着地する足裏の着き方を気にするとか。手や指が痛むときは、腕全体で、瓶の蓋を回すとか、いつもと少し角度を変えて食器洗いのスポンジを使うとか。弓の持ち方も同じです。
癖に気づくこともできます。身体の末端に過剰な力を入れすぎているかもしれない。
痛くない時にずっと意識して練習し、その動きが身につけばいいのだろう。日常生活での動きを意識していればいいのだろうけど・・・。
調子いいときは疲労する手前です。
楽譜を見て→音形をどう弾くか、体をどう使うか頭が動かしながら弾き、同時に耳で近くの音、相手とのバランス、空間の響きを聴いている。考えること、楽器を弾くことについてフル回転で意識をし、身体が覚えるまで脳みそがめいっぱい汗をかいて練習する(だから集中力は持たない。そんな練習、一日6時間もできるものではない)。
言い換えると、余計な力が入らないようになるまで身体に覚え込ませる、ということになるかな。

料理しながらラジオや音楽を聴くのが好き。社会、政治の時事問題を扱う番組がだんだん減ってきているのが残念。
最近、レコードはやっぱり音がいいなあ、と思います。Antonio Martín y Collの楽しいダンスの音楽をAntonio Bacieroが小さなパイプオルガンやチェンバロ、クラヴィコードで録音しているレコード。奇を衒わず、同じテーマが変化しながらずっと回って続くのを、丁寧なリズムのタッチで弾いているのが、とても落ち着きます。エンドレスに回っていてほしいけど、レコードはすぐ片面終わってしまう・・・。
KIMG1627.JPG

コロナ休みと関係なく、私の一日の仕事(練習も勉強も含めて)は全く変わらない。ただ、やっぱり、開放感が得られない分、疲れやすい。海外でフリーの芸術家に素早い支援が行われ、芸術が普段からお飾りや贅沢品ではなく社会にとって必要であることを聞くと、日本では組織に属していない限り、または権威ある肩書きや有名でないと価値がないような、趣味としか思われていないような気持ち、ここには居たくない気持ちになる。
憂鬱が続く。家に埃かぶっている古い物を片付けてどんどん捨てたい、頭の中の悪い考えを廃棄したいモードに入っていた、と振り返ったら、新月に向かっていた時期でした。ただのいつもの脳のクセかもしれないけど・・。
ハイテンションの時は、掃除やりながら、何か洗い物して、行った先で次々に気になることを見つけ・・・同時進行で始めてしまい、何時までに終わらせたら練習にとりかかるぞ、と、初めは頭がフル回転してるのだけれども、途中で疲れてきて、もう無理、自分に怒ってしまう。
できないんだから、欲張らないことだな。

生き物がみんな笑っている!
The Biggest Little Farm🐖🐑🐄🐓🐕👫🌲🌱🌼🐞🐝🌿
https://kokocara.pal-system.co.jp/2020/03/23/the-biggest-little-farm/

色々この先の心配事を考えて煮詰まってきたら、楽器を弾くと頭がスッキリして心が軽くなります。人は苦手なことより、好きなことをする方が精神状態がよくなる・・・当たり前だけれども。

心の安定上、いいこと。
深い呼吸に尽きる。森林の中にいるような気分になって、足裏では大地を感じて。
弓のゆっくりの動きの練習。呼吸を止めないで。
https://www.instagram.com/p/BuXxLEDhRYx/?utm_source=ig_web_copy_link

KIMG1628.JPG
豆苗がぐんぐん伸びます。
近所を散歩していて思う、家を建てるときに敷地には木を一本でも植えるようにすればいいのに。都会は土地が高くて狭いから、敷地いっぱいに建てるからしょうがないけど。アスファルトやコンクリートで土が覆われて、息苦しい。それでも植物は隙間から生き延びようとしている。
窓やドアを開けると森があって、鳥の鳴き声が聞こえて、練習に疲れたら木々や葉っぱが風に揺れるのを聞きながら野山を歩く。北欧の景色。そんな場所に住みたい、こうやって空想に逃げる。

「看護婦さんが患者さんと接して心がつながったときは非常に美しい看護になる、それは芸術の生まれる瞬間というか、美が生まれる瞬間と同じだと思う−ーーそうおっしゃるのを聞いて、私は、物書きや芸術家など表現に関わっている人からは聞かれないような、とても新鮮な表現の本質、美の本質を聞いたような気がしました。」(『石牟礼道子対談集 魂の言葉を紡ぐ』より)



posted by makkida at 19:38| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2020年04月21日

音楽家には休みはない

KIMG1449.JPG
弦楽器奏者にしかわからない、指や手や耳など体と楽器との繊細な感覚。弾かないと気持ち悪くなり居心地悪い感じ。
感染症が流行してコンサートという仕事がなくなっても、楽器を弾くという自らの仕事は何も変わりません。収入のある仕事がないからって練習や勉強しないのではありません。
本質的には、一曲いくら、一音いくら、一つのヴィブラートがいくら、で音楽をやっているのではないのです。もちろん、音楽家が無償で演奏を依頼されることは良くないと思っていますが、それとは別の話。
音楽や楽器の理解は、自分自身の問題です。

こんな状況でも、身近な人が音楽に慰められるかもしない、元気づけられるかもしれない。気持ちも、身体も、いつでも弾く備えができている、理想ではそうありたい。日々の生活では難しいけれど、理想を持っていること、それからほんの僅かでも続けること。

今日のゆるゆる動き✨ ✨ ✨ ✨ ✨
肩を上に持ち上げ(耳に引き寄せ)、首(頭)を前へ倒したり、後ろへ倒したり。息を静かに吐いたり吸ったりしながら。
右向いたり、左向いたり。目線も一緒に。首の動きが悪いときは、動かす方向へ目を先に動かして。
痛くない人は、ゆっくり前へ回したり、後ろへ回したり、一周回したり。
ゴリゴリ音が鳴らないように、無理ないように、呼吸を止めないで、ゆ〜っくりゆ〜っくり。

よい一日を!
posted by makkida at 10:34| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2020年04月18日

気づいたときに深い呼吸5分

KIMG1592.JPG
外は大雨。
家でスマホやパソコン見ることが増え、首や背中が硬直する。いつもより増えた家事に追われて、気持ちが落ち着かない。
気づくと息が浅くなっています。
そんなときは、深い呼吸を。3分でも5分でも、1分でもいい。1日何回でも気づいたときに。

息をゆっくり吐いて、吐ききって、お腹がぺったんこ。
そうしたら自然と息が入ってお腹が膨らむ。
がんばらないで。力が入らないように。

座ったままでも、立ってでも。

立ったときは、足裏から息を吐くイメージ。
地球の中へ内側へ、ズーっと入っていく。
吐ききったら、
地球の深いところから息を吸い上げるイメージ。
足裏から息がだんだん入っていきます、脛、ふくらはぎ、腰、背中、首、頭。

息を吐くとき、声を出してみてもいい。ふ〜、う〜、あ〜、でもなんでも自然に出る声で。
ゆっくり、力を入れないように、好きなだけ。
深い呼吸をして、ネガティブな考え、嫌なこと、悪いものを吐ききってしまおう!

身体の中がゆったり呼吸になってから、楽器を弾きます。
ワークショップが再開できるまで、それぞれお家でやってみてくださいね。

✨  ✨  ✨  ✨  ✨  ✨  ✨  ✨  ✨  ✨ 

posted by makkida at 09:40| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2020年03月27日

カラダと宇宙

IMG_4840.JPG
らせん。睡蓮はまだ水の中で眠っている。

こどもはマーマレードジャムの中に没頭する。くまのパディントンのように、ハチミツやマーマレードをパンやパンケーキにつけて手で食べ始めると、そこらじゅうベタベタになるんだ。

私は幼少期、土の上を裸足で遊んだり泥んこになったり、木登りしたり、雑木林を駆け回ったり、秘密基地を作ったり、色々掘ったりしていた。自然の中にいることが自然。木々の間を歩いていると、自然の中に自分がいて、私の中に自然がある。空気の中に私があり、私の中に空気がある。そうして境目がなくなっていく。
カラダの中が大きな空洞になっていき、突然、私の中に宇宙があると感じた。

くまの子ウーフのめんどりが身体じゅう卵でいっぱいなように。
その人の真実の言葉を持っている人は、身体中言葉でいっぱいで、その人の真実の音楽を持っている人は、身体中音楽でいっぱいなんだ。
それは、その人の世界、宇宙。
星と星がぶつからないで、距離を保ちながら宇宙全体が動いているように。人と人も、人の世界それぞれは、ほかの惑星ほど離れている。

頭の言葉で説明できないこと。

だから、たくさんの人の感想文を集めたものなんて、一気に読めるものではない。星と星ほど違うんだから。星に引越しするくらい大変な移動。
だけれども、星々は宇宙の中にある。

KIMG1483.JPG
雨降る前は匂いがする。
雨や雪がどんどん降っているときは小鳥たちは静かにしている。小降りになってちょっと光が射すと、ツピー、と鳴く。わかるんだね。

頭の言葉で、自然の中にいることの気持ちよさが説明できないように。
人の気持ちは理解できるものではない、と10代のときに思った。
自分が感じていることを、体の中をいっぱいの感動で満たしている音楽のことを、一生懸命言葉で表そうとしても、音葉を尽くせば尽くすほど、ウソになる、と10代のときに思った。

人はちっとも成長しない。大事なことは子どものときに分かっている。その「わかる」とは、頭の言葉じゃなく、体で感じていること。
音楽はそういうもの。
未熟である自分の音楽が立派なわけがない。
でも、イメージが音になるのが面白くて、ずっと音楽をやっている。

音とは何か、どのように楽器が響くのか、説明は可能だ。だけれども、その人の、その時の音がどうして出るのか、説明はできない。
ヒルデガルトの言葉は今はいらない。伝わるものは説明ではないから。人が見たヴィジョンの理解は、頭や知識ではないから。
音や光や匂いのような形のないものの中に自分がいる。


posted by makkida at 19:12| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2020年03月20日

解き放つ!

KIMG1448.JPG
ここ数日、信濃町野尻の家に滞在しています。気温が20度に上がった日の翌日に雪が降ったりしますが、あちこちに福寿草や蕗の薹が顔を出しています。IMG_4843.JPG
自然の恵みにありがとう。今日の収穫。
KIMG1462.JPG
倒木の処理、伐採があちらこちらで。森林の手入れは大事な仕事ですね。
KIMG1442.JPG
雪が少ないとはいえ、山笑う、までにはもう少しの黒姫山。ようやく起き出した山では、芽吹いてくると、山がホワホワと柔らかく見えます。
KIMG1463.JPG

このところのマスク売り切れに引き続き、医療用ガーゼも入手困難だそうです。持病があったり、手術の後で、日に何度かガーゼの交換が必要な人がいます。医療用ガーゼがないと生きていかれない人が困らないように!
ちょっと俯瞰して行動する、思いを馳せる、想像する、というようなことは異常事態でも、災害でももちろん、常日頃から心がけたいものです。

さて、入国制限、渡航中止や外出禁止のニュースをみると、しばらく演奏会できないのもしょうがないな、と思うこの頃。
音楽配信について本気で考えてみようかな。パソコンで録画して動画配信したものを自宅にじっとしている人に届けられないかな、と録画して見たものの、あまりに音質が酷すぎて・・・苦笑。チェロの低音はとてもパソコンで手軽に録れるものではありません。残念ながら。
でも、録画することによって、自分の弾き方の問題点が見えました。気づくのは面白いです。映像でお見せできるほどになったら、動画も作って見たいなと思います(笑)。

当然ですが、上半身の支え(特に胸)がないと、右手の動きが悪くなります。弓が弦にうまく乗らない(吸いつく感覚が持てない)問題は、姿勢でおおかた解決できます。人間(動物)は、部分で動くわけではありませんから。顔の強張りや表情も弾く時の姿勢に関係することに気づきます。弾いているとすぐ疲れる(頭が疲れるのも)のは姿勢にもよると思います。
膝に抱える姿勢は、楽器が小ぶりならまだいいですが、なかなか楽ではありません。モダンチェロでも同じ。足の長さだけでなく、全体の骨格が立派な方が有利で、肩幅があって胸が厚い方がチェロには向いていると思います(手のひらや指の作りも関係しますし)。私はチェロ弾きにしては胸板が薄いので、どうしても首への負担がきます。
わが身を俯瞰して見る。脳みそのクセは、身体の使い方に表れるのでしょう。
開放されたいですね!


posted by makkida at 22:54| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2019年12月05日

カラダは嘘をつかない

KIMG1144.JPG
演奏をする、という行為は、楽器を弾く技術を向上すればなんとかなるものではない、そして、クラシック音楽は知的な要素が必要であることもご存知の通り。

大学院にいる間に一度、留学しようと試みたことがあったが、手続きがうまくいかず、休学も取りやめて復学。ヨーロッパに行けない分、基礎をやり直す、なんて目標決めて、夏休み中、音階やポジションチェンジなど基礎練習ばかりやった。曲も弾かずに。その挙句、気持ちが表に出せなくなり、曲を弾くとき左手のポジションチェンジが怖くなった。食欲がなかったわけではないのに一ヶ月で5キロ痩せた。
心が閉じて、硬くなったら、楽器は弾けないのだ。
熱意のない基礎練習、反復練習なんて、カラダはやりたくなかったのだ。拒絶していたのだ。

室内楽、特に弦楽四重奏は私にとってとても大切だ。ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルト、バルトーク・・・残された作品が素晴らしい。音楽の内容の奥深さや難しさを解いていく過程に長い年月かける意義がある。4人の個がそれぞれの音楽を持って、その芸術作品と合わさった時に、不思議な力が与えられる瞬間がある。過去の音楽家が苦悩しつつまっすぐに己と向き合い、そのとき、そのときに「これしかない」「これだ」と生まれた音、作品。何十年、何百年経った今、演奏する者も、「これだ」という音を見つける。本番まで答えが見つからなくても、コンサートで4人がまっすぐに音楽と向き合っているとき、どっぷり音楽に入っているとき、「これだ」という瞬間がある。
ああ、これを聴き手も待っているんだと思う。

そんな思い入れがあったので、なんとか理由を見つけて続けた。気持ちも音も言葉もピタっとしていなかったのに、「このグループに10年後いる姿が思い浮かばない」「一生続ける場所ではない」と分かっていたのに。
世の中で認められている地位にある団体に属し、そこでうまく役割を果たせれば、「私が」自分を認められる、と考えた。正しいのだ、と思った。今、私が勉強すべきなんだ。いつかできるようになるはず。馴染めない自分、できない自分がダメなんだ、と。

カラダは嫌だと言っていた。
萎縮してしまう。音が出ない。笑顔が出ない。思っていることを話せなかった。
リハーサルも休みたくてしょうがなかったが、できない理由は見つからない。
とうとう、足が動かなくなった。ノンステップバスで足が上がらず、あの低いステップに足を引っ掛けて転んだ。その瞬間、いや、しばらく痛みを感じなかった。血が止まらないのを運転手が見て、バスを止めることになってしまった。生まれて初めて救急車に乗った、チェロと一緒に。そして運ばれた病院で12針縫った。そのあと電車に乗り1時間かけて帰宅することに麻酔が切れて痛みを感じた。
電車で揺られながら、ああ、明日のリハーサルは休める、とホッとした。

一緒に弾けて楽しい、という一番大事なことが抜けていて、どうしてお客さんに喜んでもらえるんだろう。
楽譜にあることを理解しようとし、勉強や練習は熱心にやっていたかもしれない。根っこを忘れた、ショーケースに入ったような音楽が、人の心に伝わるんだろうか。
生演奏は完璧な形に作り上げることはできないと思う。その瞬間は最高の仕事を精一杯したとしても。高く険しい山であればあるだけ、高い理想があればあるだけ、どんどん遠ざかる。人間は完璧ではない。
でも、人間を信じ、人間は善であるだろうことを信じ、音楽を信じ、大いなる存在が導くことを信じられる、そんな音楽が存在すること、その音を表現できることに喜びを感じ、毎回、心が震えるのだ。ベートーヴェンのカルテットには、特に中期後期の作品にはそれがある!

日々どこを向いているか、で歩いて行った先はだいぶ変わる。
異文化に出かけて「まだ無い」道を自分で切り開き、時間をかけて隣人と付き合い認め合って、多くの人の命を大切にした人を想う。






posted by makkida at 01:07| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2019年11月06日

不器用に生きること

KIMG1127のコピー.jpg
ギャラリー古藤さんにて無伴奏チェロ&羊とヤギ&写真展、無事終了しました。お集まりくださったみなさま、ギャラリー古藤さん、応援してくださった方々、どうもありがとうございました。写真の展示の準備が何よりたいへんでしたが、今まで《羊とヤギ》で演奏して来たヒルデガルトの音楽が、ゆかりの地の写真をみなさんにご覧いただくことによって、少しでも近い存在として印象を残していただけたのではないかと感じております。
1日に3回コンサートをすると、それぞれの回でお客さまの素敵な興味深い話があり、広がりがあり(それがどの回だったか忘れてしまうほど!)、本当に豊かな出会いをいただきました。オリジナリティのある活動をされていたり、困難にある人を助ける方や、病気を持った方、こんなに経験豊富な方々にお聴きいただけて感謝でいっぱいです。演奏家はいいところも弱いところも全てさらけ出し、それでも、みなさんは喜んでくださる。お客さまに感動します。

色々な教会の牧師さんの説教を聞くと、聖書の解説に留まらず、自分はどうして牧師になったか、己の生き方を聖書のどこに見つけているか、社会の問題を聖書のどの部分と繋げているか、どうしてこの聖句を選ぶのか、言葉を大事にするのか、内面の告白のようなものに触れるときがあります。若いときに出会った人(の死)や事柄についてずっと考え続け、牧師になろうとした大きなきっかけになった、とか。

お金を稼ぐためだけなら、深く思い詰めるほどの理由がなくても仕事は見つけられるだろうに。
音楽家も同じだなあ、と思うのです。
どうしてこの音が存在するのだろう、と身体でいちいち納得しなくても、鍵盤を押せば音は鳴るし、弦のこの場所を抑えて弓を擦れば音程は作れる。
大きな音から小さな音まで出せて、速く指が回って、ゆっくりのロングトーンも出せて、ポジションチェンジは繰り返し訓練して、あらゆる技術を身につけて、たくさんの曲を勉強すれば、職業として成り立ちます。どんどんこなしていけます。もちろん人付き合いも大事ですが、ハッキリと物を言わなければ嫌われません。

一方で、「音が存在する」ことを宇宙の動きとともに捉えている人間もいるのです。
災害があるときに、音楽なんてやっていていいんだろうか、明日生きられるかわからない状況で「役に立つ」ものでないかもしれないのに、人間が生きるのにどうしても必要なもの。
アカデミックな勉強をした人は、クラシック音楽ではこういう決まりがある、ということをベースにしています。ああ、こんなこと、どうなんだろう!!!
上行形はクレッシェンド、下降形はディミヌエンド。どうしてそうなんだと思う?
自然のエネルギーはどうなんだ?軽やかに駆け上がるときと、重いものがひとつひとつ持ち上がっていくときのエネルギーや、転げ落ちるときと、踏ん張りながら降りるときのエネルギーは違うじゃないか。音楽は元をたどれば自然界から生まれたもので、人間の生活の中から生まれたもの。
人間が決めたことは誰かが決めたこと。
ある時代やある様式、作曲家、その作品、それぞれに特徴を見出すのが演奏家の仕事でしょう。その「語法」を見つけて技術を試行錯誤し、喋り方を音にする。それが自分の身体に入ってくる。
音程の取り方ひとつだって、たくさん気づくことがある。まず自分の楽器の素の声はどんなだ?弓をどのくらいのスピードで、腕の重さ(圧力)はどのくらいかけたらどんな倍音が出るか。うねりはどうか。共鳴しているか。重音の弾き方は。どのようにハモらせるか。二つの音のバランスは・・・。余計な力が入っていたら楽器は鳴らない、共鳴しない。今、体はどんな状態か、呼吸は自然かどうか。弓の毛が弦に触れる感触。弦の振動を感じる指。
気づくことは山ほどある。
楽器が喜んでいるかどうか。音楽と身体がぴったりきているかどうか。そして頭と身体が開いて、音が素直に出ているかどうか。嘘がないかどうか。

そういうことをずっと考えて、いい音を出したいと思ってやってきました。呼吸するのと同じように音を出し、弾くことで癒される。音楽が私にとってなくてはならない存在です。
私の音を聴きたいと思ってくださる方からは、こうやって時間をかけてやってきたことが決して無駄ではなかったと励まされます。
だからこそ私に出せる音なんだろうと思うのです。
posted by makkida at 22:55| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2019年09月29日

ガット弦で弾くとは、アンサンブル、ともに作る音楽とは!

KIMG1014.JPG
弦楽器を弾くことの素晴らしさのひとつは、弦に当たる弓の感触があり、それによって様々な音色が作れたり、歌うように、あるいは弾むように、多彩な表現が自由にできるということだ。演奏者の大事にしていることがそのまま弾き方に表れる。
倍音を多く持つガット弦を使うということは、色の種類が格段に増え、人間の息や声にグッと近づく、ということだ。天然素材だからこそ、弓が弦に触れる時の様々な感触をよりよく感じられる。愛情なしで弾けるだろうか?
重力のある地球上で行うことは、抵抗、摩擦なしでは考えられない。弓で弦を擦るとき、摩擦をうまく利用している。上からの圧力が強すぎれば音が潰れる。弱すぎれば音がかすれる、音にならない。摩擦を限りなく少なくして素早く走らせたり。抵抗を感じつつ、細く優しい音から、豊かな膨らみを作り、繊細に消えて行ったり。息の速さと弓をぴったりあわせ、指の動きとも合わせる。抵抗の中のリズム。
どれだけの音があるだろう!
ある作品を弾くときに、メカニックができてから音楽のことを考えるのではない。決して!
どんな音で弾くか、どんな音楽かイメージができてから、その音を作るために技術があるのだ。テクニックはとても大事だ。
音楽と技術、どちらかが一人歩きはしない。演奏者の身体(頭、心も含めたカラダ)と結びついている。
表現は、身体の内側から湧き上がってくるものだ。
どんなに超絶技巧でも、あなた/私の身体の内側から出てくるものでなければ、それはその音楽(作品)とは無関係である。

そして、アンサンブルでは、リハーサルでも、当然本番中でも、お互いの体内から湧き出る表現(どんな音を出しているか)を無視して一緒に弾くことはできないはず。そのことが、音を合わせること、一緒に弾くことの最大の面白さなのだ。
それぞれが音楽と向き合い、主体的に考え、内側から音を出す、その一人一人が意見を出し合いながら、今、出ている音に反応し、音を聴きあいながら一緒に音楽をすることで、音楽(内面)の世界がぐっと広がる。これが室内楽の醍醐味!
有名でお客さんをいっぱい(お金)を集められるリーダーの音楽的アイデアにただ従うのは、音楽の本質から離れてしまう危険がある。一人一人の声が聞こえず、共演者の意思やアイデアと無関係になり、本質から離れてしまうなら、どこかの国の政治家と同じではないか!
音楽をやっていれば世界が平和であるのではない。

指ができるだけ速く動くことに夢中になると、呼吸が浅くなり、呼吸を忘れてしまい、フレーズの終わりを飲み込んでしまうことがある。最後まで音を丁寧に弾かずにどんどん次へ進んでしまう。メロディを持つ人に合わせようと、他の人たちも慌ててついて行き、息苦しい音楽になる。フレーズの最後まで音を聴くのは、それぞれの言葉を最後まで聴くようなもの。これが音の処理であり、フレーズの閉じ方、ハーモニー(和声)の感じ方、弾き方となる。
また、頭うちのリズムの捉え方、弾き方をしていると、ただ速さだけが目立ってしまう。どんな速いパッセージにもスイングがあり、その揺れの流れの中にリズムがある。
フレージングも、弓の動きも、音のシェイプも、音楽は弧を描くのだ。
弧を描いて飛んで行った音を相手が受け止め、聴き手が受け止め、空間にはたくさんの虹や円ができる!ボールが弾むような自然の摂理のリズム感。バッハはなんて心地よいスイングなんだろう!

速い曲でも一度はみんなでゆっくり弾いて、和声や誰が何をやっているか、動きの変化を味わってみるのは新鮮な発見がある。耳で確認したあとに速く弾くと、色々なものが鮮明になり、違って聴こえるだろう。
どんなに技術がある人でも、立ち止まって、ゆっくり弾くことは必要だと思う。

楽譜の表面的な読み方「目に見えること」だけでアンサンブルをしていても、本質には出会えない。音楽の世界は逃げて行ってしまう。
身体を通していつでも新鮮に音楽と向き合っていれば、作曲家の精神に出会うことができるはず。
その音楽の言葉を喋ることや、言葉の持つ意味や、自然な音楽の流れや、心地よいと感じるリズム感。そして、それぞれの音が身体の中から発せられ、お互いに音を重ねて共鳴すること。基本的なことを大事にしていれば、音楽の方から語りかけてくるものがある。
そのようにして奏でられた音楽が一人一人の心に届き、それぞれの内面が自由になり、本当に平和が訪れるようにと願う。
posted by makkida at 20:30| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2019年09月11日

弓と弦の仲

KIMG0964.JPG
バロックボウでは弓を弦に当たる接点の感覚を自然に感じられる。
毛が深く弦の中に入るときは、まるで水の中に浸すように。そして水から出していくように。
また、筆を使うときのように、弓の毛を少なくから始めたり、逆にだんだん少なくしたりするときは、筆の毛先を想像する。
絹の布や子猫の柔らかい毛を撫でるような感覚。
太い筆、刷毛を使う感覚。
様々な感覚を想像できる。

いい弓を使うと、その感覚がよりはっきりわかるのだと思う。自分で所有できればこんな幸せなことはないが、一度でも使ってみると身体が覚えてくれる。
posted by makkida at 13:53| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2019年09月06日

弓の持ち方を考える

KIMG1009.JPG
綺麗な湧き水はおいしいだけでなく、肌に優しく、驚くべき洗浄力もある。都会の水は薬品で消毒されているけれど、生命力があるのはどちらだろう。

チェロの弓を持つ時に、右手の親指の負担は誰にとっても問題になるだろうと思います。
ヴァイオリンの場合、弦の上に弓が乗る形になる一方で、チェロの場合は、弦に当てた弓は、右手で持っていないと落ちてしまう。
弦に引っかかってくれるのは弓の毛であり、弦の当たりや弓の毛の引っ掛かりを感じるには、うまく脱力できていないといけない。もし、手(指)の力で弓をつかんでしまうと、弦と弓の毛の当たりを繊細に感じ取ることが難しい。
弓を持つけれど、力では「持たない」。

まず椅子に座った時に、両方のお尻(座骨)がうまく乗って、腰や背中が反って緊張することもなく、ぐにゃっと折れ曲がることもなく、体幹の支えがあること。腰が前後左右、円を楽に描け、胸(肋骨)もみぞおちも首も楽に揺らすことができること。
両手は楽にぶら下がり、腕そのものの重さを感じる。両足を股関節を緊張することなく無理なく広げ、両足裏が地面についているのを感じる。つま先をついて踵を上げたり、踵をついてつま先を上げたり、つま先をついて膝を揺らしたり足首を回したり。
座り方を観察してから、チェロと弓を持つ。

弓を持つ手は、自分側に親指、駒がわに他の4本の指、ふわっと持つ(イメージ)。何か丸く太いものを持つように掌を丸く広げる。
細かい動きを指を使って行う時に、指だけ動くことを考えてしまう。もちろん、ロングトーンや力強いアタックは大きな部分、腕全体を使う。
80グラムぐらいある弓を扱うのは結構力仕事でもある。指だけで仕事をしていては、痛くなるのも当然。つい、指を強める訓練など考えるだろう。その訓練で指を痛める皮肉も・・・。
フェルデンクライス(ハーモニー体操と称して)の指導者からアドヴァイスを受けたこと。親指を動かす時に他の部分も連動するのを止めずによく観察してみる。手首、腕の回転、角度、自然についてくる動きがある。
そこで改めて思い出すのは、指先の細かい動きは腕の付け根(肩甲骨)から関わってくるということ。「いや、それだと細やかな動きにならない」と思うかもしれない。だが、弓先の返しを柔らかく行うときに、腕の付け根から動かす(意識する)と自然とスムーズに行く。あちこちの動きがうまく連動できるときは、身体に無駄な力が入っていない状態。反応も早いし、繊細に感じることも、腕の重さを生かすことも可能。指先だけ動かすと、かえって大きな動きになることにも気づく。

疲れてくると、まず体幹が崩れ、両手を支えられなくなるので、身体の部分がバラバラになって連動がうまくいかなくなり、結果、部分を痛めてしまう。
気持ちいい身体の状態を覚えておき、思い出すように脳を使えればいいのかもしれない。深い呼吸も大事だろう。

17、18、19世紀の絵画や写真でチェロ奏者の弓の持ち方を見ると、指の位置を固定して持っているようには見えない。18世紀半ばまでの絵で、チェロ奏者がアンダーグリップ(現在の多くのコントラバス奏者のように)で弓を持っている場合もある。
写真ではポーズを取っているときに脱力しているからかもしれないが。絵画の場合は、演奏している人を見て絵描きが描くから、より確かかもしれない。

18世紀前後に活躍したフランス出身のチェロ奏者デュポール兄弟、そのテクニックの影響を受け継いだ19世紀のベルギー出身でフランスで活躍したオーギュスト・フランショームは、右手のボーイング(bowing)のテクニックの種類が豊富で、ヴァイオリン奏者と同じように弾けたという。例えば、弓先でのデタッシェ(音と音を繋げずに弓を返して音を離す。弓を止める必要があるが、決して力を入れて止めない。力で止めると響きがなくなってしまう)はヴァイオリンの効果的で素敵なテクニックの一つだが、19世紀フランショームの周りのチェロ奏者の間では、太いガット弦(特に低い弦)で弓の毛が弦を噛むことは難しく音がかすれてしまうので、弓の真ん中か4分の3位の位置でデタッシェをするものとされていた。でも、フランショームは弓先で、デタッシェもスラーを含む様々なボーイングも得意であった。
そこで問題となるのは、どんな音で弾いていただろうか、ということ。
音は残っていないから想像するほかない。
20世紀はじめの弦楽器奏者たちの音源が手がかりになるかもしれない。
音源に残された「はっきり」「明瞭な」音を、現代のスチール弦と同じ音質で捉えていいものか。確かに素晴らしいテクニックが想像できるけれども、音量に関しては当てにならない。
16、17世紀のバロックから古典派を経て19世紀の演奏を考えたときに、一つ一つの音が響きを持って放たれるイメージが聴こえてくる。舞台で俳優が一言一言明瞭に発音するように。それは大声でなくても届くはずだ。

痛みがなくて身体が軽やかに動くときは色々考えなくても弾けてしまうものです。痛みが出たときや、身体が固まってきたとき、いい音が出せないときなど問題が生じるときに色々考えます。正解はなく、アイデアをできるようになるには時間がかかります。
これからも時間をかけて試行錯誤を楽しもうと思います。

演奏時の身体の使い方でお悩みの方、ご一緒に考えるレッスンをいたします。こちらまでご連絡ください。
MA企画 kikaku_ma☆yahoo.co.jp (お手数ですが☆を@にタイプし直してください)
またはFacebookメッセージまで(返信に時間がかかるかもしれません)。
posted by makkida at 00:02| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2019年07月30日

印象深い先生

KIMG0949.JPG
うまく弾けたことを褒めるのではなくて、本質を理解できたことを褒める先生。
ふと思い出す先生がいる。
ベートヴェンの熱情ソナタの2楽章を聴くたびに。

私は高校でも大学でもソルフェージュのクラスは下の方だった。ピアノ科には、絶対音感があるのが当たり前で、書き取りもクレ読みもどんどん出来て、楽譜を初見でどんどん弾ける人がざらにいた。だから、ソルフェの授業は苦痛だった。
大学で、ある個性的な作曲家の先生のクラスになった。坊主頭でいつもラク〜なゆるゆるした服装で、杖をついて草履履いて(多分そうだったような)来られるこの先生のソルフェの授業は、これはまた他のクラスとは違うことをする内容だったけど、私にはとても面白かった。この授業では、基本的にピアノが流暢に弾けないと話にならないのだが、私は全然弾けなかった。彼の取り上げる曲は、多分、伴奏ピアニストとして歌曲をよく弾いていらしたからだろうと思うが、マーラー、ヴォルフ、世紀末ウィーンの音楽が多かった。チェロの曲があまりないこの辺りの作品に触れる機会が少なかったので、この先生の解説つき演奏は新鮮だった。そう、この方は、歌のパートを歌いながらピアノパートをグイグイ弾いていくのだ。
いわゆるソルフェージュの授業っぽくないね(^ ^)
ただ、リズムに関しては厳しかった。
ベートヴェンの熱情の2楽章の初めのテーマを大声で歌いながら弾く「感傷的になってズルズル酔っぱらったリズムでよく弾く人がいるんだけど、そうじゃないんだ」。シビアにリズムを細かく分けるのだが、冷たく機械的なところは無く、前進する強いエネルギーや意志を感じた。音符がそのリズムによって血肉を与えられたようだった。
音楽の美しさを表面的に捉えて「感情的に歌う」と、作品の本質が見えなくなる。基礎的なことを身につけずに、思慮深い理解無しに、書かれていることを気分に任せて表面的に崩すことを嫌った。

毎回の課題を学生はみんなの前でピアノで弾くのだが、私は先生の言うリズムの感じ方が理解できるのに、ピアノで思うように弾けない。でも先生は「あ〜あ!あなたピアノが弾けないけど、解っている!」と。「チェロでもいいんだけどー」「右手だけでいいから弾いて!」と元気に励ましてくれた(あまりの弾けなさに呆れていたんだろうけど・・・)。

「締め付ける服は体によくない」「ベルトは苦しい」と言ってゴムのウエストのズボンを履いてらした。
今思えば、チラと顔を出す一言や考え方はご自身の音楽に繋がっていたのだろう。卒業後、上野公園を、あのいつもの格好でスタスタ歩いてるのを一度お見かけした。どんなに興味深い話が聞けたかと思うが、その後直接お会いする機会もなく、演奏を伺うこともなく、だいぶ前にお亡くなりになったと聞いた。

ホロヴィッツの熱情ソナタのレコードを聴きながら、懐かしく思い出す、強く印象に残る先生。
posted by makkida at 22:00| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2019年07月28日

自然な自分の呼吸と。基本的なこと

KIMG0879.JPG
自分の身体は弾き方を知っている。
身体が分かっている弾き方を、その作品のテンポやリズムの流れに乗って、または音量や音質のバランスに合わせて弾けるようにするのが、練習。頭で弾き方を制御したり、作ったりすると、余計な緊張が加わると思う。音楽に合わない緊張は不自然。

弾けるようにするには、音楽(作品)の持つキャラクターやリズムのまま、ゆっくりテンポを落として自分のテクニックを見ていく。
ロングトーンの弓の動き、弾き出すときの発音、弓のスピード、曲線(スラー)の描き方、様々な種類の弓遣い(ボーイング)音の種類、指の押さえ方、音階、ポジションチェンジ、チェンジで右手に影響が出ないか・・・結局は基本が大事。毎回、基礎となる事柄に立ち返って磨いていく。

音の響きの仕組みを知っていることも基本の姿勢の一つ。
和音はバスから高い方へ音が重なっていく。土台がぐらついていては家も安全ではないのと同じで、安定した響きは低音が豊かに(音が小さくても)そのキャパシティの呼吸で鳴っていること。
高い音というのは小鳥の高い声のように遠くまでよく届くもの。逆にいうと、低音の発音は鈍く、柔らかく聴こえるもの。だから、同じフォルテの音量を出したときに、低音の方が弱く聞こえてしまう(あるいは物足りなく感じる)。
ボリュームよりも音質を考えることが大切。
楽器の持っている能力(キャパシティ)を存分に引き出すために、弾き手の自分が楽器を制御するのではなく、楽器の声(呼吸)を聴いていく、つまり、どのように音を出したいのか楽器を鳴り方を感じながら対話していく。これも基本だと思う。

そして、作曲家の語法を知ること。言語が持つリズムや重さ軽さ、アクセントのつき方、抑揚。言葉がついている歌のように弾けるといい。

いい歌手のように、まるでふだん話しているようにリラックスして、自然な呼吸で弾き出せたらいい。
歌うため、弾くための特別な呼吸ではなくて。今から弾く音楽、次に弾くフレーズやリズムに合った呼吸で。
音楽そのものが持っている自然な流れに合った呼吸と体の動きで、どんな難しい技巧を要する音形も弾けるようになれば、本番での失敗も恐れなくなるのではないかな。

いい音楽をするために地道なことを一生続ける、音楽家の生活なんて地味なものだ。
posted by makkida at 18:25| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2019年03月04日

呼吸と弓使い

生きていくのに一番大切な呼吸。
弦楽器を弾くときの運弓(弓使い)、右手の動きは呼吸。

「自分の自然な呼吸に集中する」
KIMG0798.JPG
毎日、毎時間、毎分、毎秒、濁って澱んでいく心。息を吐いて心をキレイにする。
「一生懸命でなく、丁寧に」

呼吸は瞑想。
ゆっくりなボーイング(運弓)は瞑想。
posted by makkida at 11:04| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2019年01月11日

ココロは嘘をつく

KIMG0389.JPG
久々に行ったハーモニー体操(フェルデンクライス)のクラスで、講師のコンラッドさんが話してくれた「体と心の関係について」がとても興味深かった。
心はたまに嘘をつく。
「私は元気。疲れていない」と思っていても、例えば頭を動かすときに、体の他の部分が固まってしまって連なって動いてくれないことがある。まだ動ける、まだ大丈夫と思った時、体がそれについて来るかどうか。体の動きをチェックすることが、疲れ具合や怪我回避のバロメーターになるかもしれない。
心は簡単に嘘をつくけれど、体は嘘をつかない。

学生の頃、私はチェロの先生(教授)に「君は音楽はいいから、もっと技術を磨きなさい」と言われていた時期があった。室内楽が楽しくて、デュオ、トリオ、カルテットなどに手を広げていた。自分では本気に取り組んでいたつもりだけれど、気持ちはソロ曲の練習より室内楽に向いていた。
ある時、進路がうまくいかなかったことがあり、「これから基礎をやり直すつもりで取り組みなさい」と言われ、私は落ち込んでいたこともあり、その言葉に素直に(?)従い、ひと夏、音階、指の練習やポジション取り(シフト)の反復練習など、基礎練習に1日何時間も費やした。
それでどうなったかというと。
楽器を弾くことが怖くなり、5キロ痩せた。
心が蓋をしてしまったように、固くなり、閉じこもってしまった。気持ちが動かなくなった。水面の上の一部分だけが反応しているような感じだった。
本当にチェロが弾けなくなってしまった。

これは、嘘ついたのかどうかわからない。
見ようとしなかった結果、自分をいじめてしまった。
やらねばならない、これを克服しなければならない、と決めてしまった。頭を動かさずに行動する方が楽だから。もっと考えなければならないことがあったのに。音楽をしたいのに、音楽を無くして楽器の訓練をしてしまったのだ。

その後もしょっちゅう。30代の苦しかった時期もずっと。
たくさん練習してリハーサルでは弾けているのに、本番で体が自由に動かなくなり固まってしまい、響く音を鳴らせないし、音は外すし・・・。

専門家になるために、小さな嘘をつき続けているのではないか。
理想を持つことは大事だけれど、何を考えるか的が外れていては、何年経っても芽が出ず、変わらない。やみくもに練習だけ重ねていても、弾けるようにはならない。表現者は、自分のやっていることを理解することが大切で、自分のしたいことを大切にしなければならなくて、それが良さを伸ばすことになる。

世の中の評価はそんなに間違っていないと思う。
商業ベースに乗れる演奏家になるより、一音出して、それが心を打つような音楽をしたいと思っているのだもの。
posted by makkida at 20:05| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2018年06月30日

聴く、探す、見つける、弾く、そして遊ぶ!

KIMG0180S.jpeg
 楽器を始めたらなるべく早い時期から人とアンサンブルをして、互いの音を聴き、楽器に慣れ、弾く楽しみを感じ、自然体で音を出せるようになれたら素敵です。
 楽器を学ぶ人は、楽器の弾き方の基本、音の出し方の手がかりを学んだ後は、なるべく自分で疑問を持ち問題点を見つけ、色々な方法を探して試してみることが大事です。様々な作品を勉強するには、作曲家の時代の弾き方、または作曲家独自の語法・・・それは時代背景から得るものもあるし、音楽史(歴史)、言語など様々な切り口から考えて音のイメージをつかむ必要があります。

 演奏技術の基礎に関しては、いろいろな技術習得や楽器に慣れるために、耳と頭を使って集中して基礎練習や練習曲に取り組むことが必要です。ある程度弾けるようになってからは、自分が何を練習しているのか理解したほうがいいです。
引き出し(奏法・技術)が多い方がいいですが、音楽と関係なく技術だけが一人歩きするのでは、なんのためのテクニックか分かりません。つまり、どうしてその言葉や言い回しを使うのか、それがテクニックです。
そして、作品のスタイルや音楽の中身を勉強して、どんな技術を使うか自分で選ばなくてはいけません。一人一人それぞれの体型や個性やアイデアがあるように、答えは1つではなく、「探して、見つける」作業は音楽を続ける限りずっと終わらないのです。

 身体を楽にして音を出すワークショップをしてみたいと考えています。
右手は呼吸です。息に音(言葉)を乗せていくには、まず開放弦を解放されて(!)弾くことができないと、混みいったパッセージ(言葉遣い、セリフ)も混乱するだけでしょう。腕をどこから動かすのか、身体のどこに繋がっているのか、気づくことはたくさんあります。
呼吸と弓の動きや身体のつながりに気づくために、身体をまずリラックスして簡単な動き(ゆるゆるした準備体操)から始め、開放弦を鳴らして倍音を聴きながら音を重ねて行く。調和の気持ち良さを聴き(感じ)、バッハのコラールで和声と響きを味わおう、という遊びのようなワークです。

 自由になるために、楽器を置いてリズムに合わせて歩き回ったり、身体を感じるままに揺すったり、ジャンプしたり、スキップしたり、そんな簡単なこと?と思われるかもしれませんが、意外と出来ないものなんですよ!
日本人の体には前屈みで田植えをしたり畑を耕す動きの癖が入っているかもしれません。拍を手で打ってみよう、というと上から下へ打ち下ろす、動きが下で止まってしまう人も多いですね。拍やリズム、すなわち音は決して止まらないのです。上へ跳ね上がる動き、これがリズムであり、前へ進む音楽のエネルギーです。演奏する作品がどこの国や民族のものなのか、どんな言語や踊りを持つ人々の音楽か、それによってリズムの捉え方も変わります。ダンスのステップ(上手じゃなくても)のイメージが無ければ、舞曲は弾けないでしょう。言語もリズムや抑揚に大きく関わっています。そのものと言っていい。
その度に一緒に考えていければいいですね。

挙げていくときりがないですが、このような遊びの観点からアンサンブルのワークッショップを始めてみるつもりです。
posted by makkida at 10:00| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2018年01月03日

原因?

IMG_2847.JPG
2018年元旦の夕日
ネットで検索でき、メールの返信、SNSの反応など、すぐに答えを求められる(答えることが可能になる)傾向にあると、「こうなった原因」の答えが見つかるような気になります。「どうしてこの人はこうなのか」「こういう行動をするのか」「こうやって弾くのか」「こんな姿勢なのか」・・・挙げ句の果てに「あんなことしたのはこういう性格だからだ」と。

私自身を見てみると。
腰が痛む、耳鳴りがする、怒りが現れる、劣等感に襲われる、後悔する、失敗を思い出す・・・完全に都合の悪いことを制御することはできたら、いつもポジティブに、いい人でいられるだろうか。
こうなった理由は何層にも渡っていて、知られたくないこともあり、今はこうしかできない状況もあり、解析不可能だと思うのです。答えは一つではないとよく言うように、本当にそうだと思うのです。
私自身の体についてもわからない、どうなっているのか、なんと訴えているか本当のところわからない。訴えている言葉が真実ではないことも。自分に都合の良いように解釈するときもあります。
リラックスしているときは楽に楽器が構えられて、いい音がする。では、毎日、毎時、毎分、そのままでいられるかといえば、そうではありません。相手が生きたものであれば、すべてのものがそしてすこしずつ変化するのだから。
温度や環境や月日など、耳鳴りの原因がはっきりわかるわけがない。先生も医者も理解には限りがあります。特別な霊的な力で「わかる」人もいるでしょう。大昔、人類はみんなそのような力を持っていたかもしれない・・・。
今現在、この環境でできることをしなければなりません。だから自分自身で観察する。できることを自分でする。人の助けを借りる。
人と一緒に過ごすとき、それが仕事であろうとも、理想や持っている受容力や知識、コミュニケーションの方法が違っても対話ができればと思います。発信力は人それぞれで、想いの大きさは発言の多さとは別だから、「待つ」「聴く」「言わない」ことも対話の一部なのでしょう。その対話や交流が、いつもプラスの前進になるわけではなく、駄目な部分が露呈し疲労することもあるでしょう。表面に見えていることと、本質の部分で全く違うことだってあります(世の中で起こっていることはたいてい!)。それでも人は批評し、判断されます。もう、しょうがない。
芸術家は知識が多く正しくあればいいパフォーマンスになるのでもなく、確かではない、はっきり分からないことを抱えたまま、深層部で自分なりの答えをその時々に見つけていくのではないかと感じています。
新しい年を始めるにあたって。

posted by makkida at 23:54| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2017年08月04日

多湿と弦楽器

弦楽器には生きている材料が使われている。音楽的な耳と、それに基づく判断のできる大きな視点と繊細さを持つ職人の技術による手作業。美術品、工芸品と言ってもいいくらいのもので、音の出る箱ではない。普段からぶつけたりしないよう取り扱うのはもちろんだが、もし地震が起こってもダメージを受けないような保管を考える。物が上から落ちてこないように、とか、立たせておかないように、とか。

この楽器は、大きな音を出すために弦そして本体を十分に振動し、指板を縦横無尽に指を走らせ押さえることができる。素晴らしい設計でバランスが保たれているとつくづく思う。
そして4本の弦は強いテンションで張られている。湿度が高くなると弦が伸びてきて緩んでくる。そこから湿度が低くなったときに、張力が上がってしまうので、湿度の変化には要注意だ。長時間飛行機に乗るときには、気圧がかなり変わり乾燥するので、私は弦を緩ませておく。普段も、たまに弦を緩ませるとよい。楽器がホッとリラックスするように感じる(笑)。
多湿の夏、弦楽器にはエアコンと除湿機は必須。
膠で貼り付けている板の剥がれ、特にオールドの楽器は昔から今に至る間に生じた小さなひび割れ(修理済みであっても)には気をつけていないといけない。
弾いた後は、手で触れる部分は清潔な布で丁寧によく拭いておく。カビが生えるなどもってのほか!
昼間、車の中は冷房を止めるとすぐに気温が上昇する。50度の車内に楽器を置いておくことを想像すると・・・!ガラスを割って盗まれないためにも(!)置いたままは危険。
人が快適な温度と湿度より、ずっと管理がデリケート。これは湿気が気持ち悪いという問題ではない。残念ながら日本にいる限り省エネを実行できない。湿度を上げることは手作業でできるのに、逆は無理である・・・。

ガット弦を使うようになって、ますます手入れに神経を使う。
今年で終わりにしたい、と文句言いつつ、もう何十年も多湿の夏を過ごしているが、好きにもなれないし、馴れるものではない。
posted by makkida at 23:56| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2017年07月06日

宇宙と自分

Victoria006s.jpg
私がかれこれ10年お世話になっている整体の先生は、何の権威とも無縁、自分で理解することが全て。
自分で得た確かな証拠と触感による治療。人間の身体を部分で捉えるのではなく、関連を見つけ、状態を観察し、バランスを取っていく。大事なのは「治療が痛くないこと」と仰る。それぞれの身体や姿勢の癖を受け入れる。あるがままの姿を見る。丈夫なのが良いことでもなく、弱いところがある方が気をつけるからいい、とも。歯医者も「痛くないこと」「熱心な治療をしない(勧めない)こと」の観点で選んだのだそう。
どこどこ大学の有名教授が「まだ痛みの原因を部分で捉えて解決しようとしている」ことに時々腹を立てている。痛みに関しては「何が何に効く」とか「即効性」とか、簡単にお金に繋がるようなのは本当の治療ではない、ということか。
無理な力を使わない治療。温める、緩める・・・患者が気持ちがいいと感じる。

いいエネルギーが存在していれば草木もぐんぐん伸びる。彼らに意志があるかのように。

文字通り、今を生きる人。自分のペースでゆっくりと。
どんなに上手くいかないことがあっても、すっきりしなくても、今日一日で完結する。今日をそのまま受け入れる、謙虚なこころだと思う。
望めば向こうからやってくる。ヨガでも料理でも、初めから本質に直接触れることができる。
旅に手ぶらで出掛けて、帰りにはたくさんの宝ものを貰ってくるような人。出会った人が喋りたくなり、その人に大事なものを与える。
自然とそうなる。
宇宙が助けてくれる。
まるで『アルケミスト』の若者。

posted by makkida at 23:28| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする
当サイトの写真の無断転載・無断使用はご遠慮ください。