2022年01月11日

自分を助ける

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自らを助ける。
前の首相が口にしていた意味ではなく。そういう圧力やストレスや理不尽な事、行き詰っている現状から、自分の心が少しでも逃れる時間を作って、自分を楽にする、という話です。
新型コロナウィルス流行がこの先まだ何年続くかわかりません。自分の仕事がこの先どのようにやっていけるか、新しく人と出会う機会を作れるか、何処でどうやって生活していけるかもわかりません。
家を出たくても出られない、悶々とした未成年に舞い戻ったよう・・・。
「家にいよう」なんて言われて、ものすごくストレス貯めている子どもたち、苦しんでいる人たちにとって、今は闇の中。

自分の夢中になれること、集中できること、これをしている間は嫌なことを忘れる、ということに没頭できる時があったらいいな。
家にいて「手伝いもしない!」と親に怒られようと、自分がキレなければ、その方がいい。
怒りの方が始末が悪い。怒りは周りの人の心身を害する。周りも自分も傷つける。

「今日の糧をお与えください。」
今日もご飯が食べられた。ありがとうございます。
周りの人とうまくいかなくても、仕事が継続的になくても、食べられさえすればなんとかなる。

また明日から大雪が降るそうです。
隣近所の人が雪かきしてなくても、人にはいろんな事情があるんです。体が痛いかもしれない、熱があるかもしなれない、風邪っぽいかもしれない、明日大事な試験や本番があるかもしれない。
身体が丈夫な人や動ける人には、どうして動かないのか理解できない、という考えもあるみたいです。
動けない人もいるんです。
動ける人が動けばいい。

バランスよく、なんでも食べたり、鍛えたり、運動するのがいい、という人もいます。
スポーツ選手でも膝に故障があって正座ができない人もいる。ある部分が動かなくても、スポーツを楽しんだり、専門にしている人がいます。
楽器演奏でもそうです。
骨格がよく、全ての筋肉が強く、柔軟でよく動く、体に恵まれた人だけがいい音楽をできるわけではありません。指が10本ない人もいるし、関節が硬い、腰が弱い、身体が小さい、細い、長時間立って(座って)いられない、耳が繊細すぎる、目が見えない(耳が聴こえない!)・・・弱いところを持っている人も音楽を楽しんだり、素晴らしい音楽の感覚を持っていたりします。

音楽は私たちを助けてくれます。
人とうまくいかなくて仕事もなくて、明日が来るのが嫌だというときでも、音楽に深く入っていければ今を生きられるんです。自分が呼吸できるし、安心できて、幸せな気持ちになれる。24時間のうちにそんな時間が10分でもあれば、1分でも音楽に触れれば、そのエッセンスをもらえれば、生きられる。
コンサートに足を運んでくださる方に、そのような時を過ごしていただけたら、素晴らしいだろうなあ!
新しい年始めのソロ、そして誕生月の、今週末の長野での小さなコンサートで、心を満たす時にできたらと思います。

楽器を弾けるかどうか、音楽を続けられるかどうか。自分自身がやるかどうか、これだけです。
家事や雪かきで身体を痛めるのは言い訳です。外に一歩も出られなくても、音楽家でありたいかどうか。

自らを助ける。
身体を痛めてでも弾けるまで長時間弾き続けるのは、経験上、大事なものを壊しているように思います。
楽器を弾く前に10分でも、身体を緩め、ゆっくり深呼吸し、暖かな血が廻るようにする時間を作る。弾いていて痛みを感じたらすぐやめる。こちらの方が楽なようでいて、ずっと忍耐強さが必要です。自分と向き合う、精神的に豊かな、瞑想のような音楽になります。
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posted by makkida at 19:19| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2022年01月03日

見えないものを感じ、見えるものを生かす

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新しい年になりました。明けましておめでとうございます。
雪に囲まれた家の中で暖かく、静かに過ごせることに感謝。ヒルデガルト の音楽から心の落ち着きをもらって新しい年を始めます。
天からまっすぐに降りて来た言葉と音楽。そこには体裁も頭だけの理解、人間社会のしがらみもない。そのまま、ありのままで受け止めるヒルデガルト 。その音楽を奏でるだけで、宇宙の中の自分を感じ、音楽に深く入っていける幸せ。
「今われらに開かれた 閉ざされていた門が」Hodie (Nunc) aperuit
この詩に限らず、ヒルデガルトが啓示を受けた詩には、処女マリアが新しい生命を受け入れる、性のことを赤裸々に綴ったとも言える内容の聖母マリアを讃美するものが多いのです。
当時の権力者や頭脳優先の学者にとって恐ろしい存在だったでしょう(今でも避けたり怒ったりする人はいるでしょうね)。
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以前も紹介したかもしれませんが・・・
イギリスのWigmore Hall の András Schiff Beethoven Lecture-Recitalsが素晴らしくて。ベートーヴェンのピアノソナタは、もちろん、楽器としてのピアノの目覚ましい発展が大いに影響しているのですが、オーケストラの響き、ベートーヴェンの以前の作品、彼が影響を受けた尊敬する過去の音楽や文学などとの関わり(それらを楽譜(作品)から見つけて音や性格やテンポ、本質的なものにたどり着くのが本当に楽しい作業!)思想や人間の理想が前提として存在します。それから、冗談、ユーモアも!だからベートーヴェンの音楽は興味が尽きない。
語りながら次々に弾いていく様は圧倒されるけれど、何より、シフ氏の音楽への愛に感動する(ユーモアがあって親しげで!)。特に後期の音楽を聴いたり演奏するときに体が震えるほどの感動は、人間が作り上げる世界でなく、天体の動きを感じ、人間は目に見えるものを超越するものを感じる感覚を共有できる、ということから来るのだと思います。シフ氏が宇宙を感じているのが音から伝わることに感動・・・。

言葉は、誰が発するかによって変わり、その人がその言葉をどう解釈し考えているか表れます。
それによって、言葉が生きてきます。
音楽と同じ。
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年末に溜まった新聞を読むと、感染症に関わる貧困や困窮、国の予算や防衛、軍備など穏やかでない重要な問題が、毎日のようにこれでもかと記事になっていることに気持ちが重くなります。政治や自然環境を守ることは、個人の生活と繋がっています。使われる(問題になっている)言葉の本来の意味をまっすぐに捉えて、人が繋がって小さなコミュニティから動いていけたら。
小さな自治体では、みんなの目が見ている、というのがポジティブな方向に働けばいいのでは。少し人と行動がずれるのは好かれない狭い地域で、「失敗」をすることにビクビクするのがマイナスだけれども。それでもやはり、人によるのでしょうね・・・。
小さな町に住んでいると、農産物では地元の新鮮で安いもの、有機や自然栽培のもの、季節で採れるものが美味しい。ブランド米でなくても、町で作る米がある。菜種油や小麦粉を輸入しなくても、米粉や米油は身体に引っかかりなく入る気がします。
生きている場所から近いところで採れるものを生かす。目に見えるもののいい点はこういうことでしょう。
自由な発想を実現できるようにしたいものです。
音楽では、どんなことやっても自由だよ!と、それぞれの人の心や気持ちを解放できるようなレッスンやコンサートをしたいと、改めて思います。自分自身が解放されていないと!身体も緩んで、心も自由で、それを演奏につなげていきたいです。
「開け、わが心よ」Öffne dich, mein ganzes Herze
ちょうど見ていた楽譜がBWV61 Nun komm, der Heiden Heiland「いざ来ませ、異邦人の救い主よ」のアリア。啓示ですね。
posted by makkida at 15:16| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2021年09月01日

身体を使う

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一昨日の夜、住んでいる地域では霧が立ち込め、気候が変わった、と身体で感じた。東京では連日35度超えだけれど。
ここでは、今年の夏、カラッと夏の日差しだったのは8月の初めだけ。中旬から雨続きで、湿っぽい夏だった(まだ終わっていないけど)。
今朝は雨。今の気温は16度。

小中学校ではタブレットを使う授業が当たり前になっているのだろうけれど、私のアナログ頭には、コンピューターの画面で読むことが難しい。ネットニュースや文章が存在することを「チェック」する程度が精一杯。長い文章を「理解」するのは紙媒体でないとできない。脳みそのひだに残らない気がする。
自分の頭で考える作業は、時にすんなりうまく進まないし、迷うし、わからないことばかりだし、時間がかかる。けれども、子どもの時にそのようなことは当たり前だ、と体験することは大事だと思う。
知識を得ても、自分の頭だけではどうにもならない。人と一緒に考えて出口を探していったり、昔の人はどうしていたのか本を読んだり勉強したり。

私は自分で作曲したいと思わない。才能を与えられていない。まず、欲求がない。アイデアのないカスカスの頭を絞ったって、そこには音楽の魅力はない。
だから、今まで生きてきた多くの音楽家や同世代の音楽家から影響を受け、楽器から学び、そして自分の頭で考え、自分の体を使う。過去の芸術家が残した素晴らしい作品がきっかけとなり、その扉を開けて、音楽の限りのない可能性の宇宙に身を投げ出すのが楽しい。
昔も今も、興味深い作品には、表に見えているものの背後に大きな世界がある。アイデアやインスピレーションは、その人が考えてきたことの結果でもある。

どんな小さなことでも、どんな小さな行動でも、身体を使うことで人は仕事の喜びが得られるのではないかな。多くのお金が動くという目的ではなく、生身の身体を通す喜び、その人柄が出る仕事、芸術に感動するのではないかな。
posted by makkida at 10:48| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2021年08月11日

言葉にすること

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民主主義では国は国民に理由(どうしてそれをするのか)を、国民は意見を国に提供することが大切、と、ある哲学者が言っていた。
会社や公的な組織にいる人は自分の意見を言いにくい。また、狭いコミュニティ、村社会では、心を読み合うことができるのか(本当にそうだろうか?)、言わなくても分かる(のだろうか?)集団にいると、自分の意見を相手に伝える習慣がないのかもしれない。
何か問題が起こったときに困っている人を気遣ったり、察するのは大切。だけれども、直に本人に理由や考えを聞かずに自分の解釈で判断して「何も言わない」、これは組織でうまくやっていくコツなのだろうか。
音楽家でも、今演奏している曲をどう思うのか、何を考えているのか、「好きか、嫌いか」も言わない人が多い。勉強不足な分野には反応してはいけない、と思っているのかもしれない。
地方の小さな町では(いや、一般に、かもしれない)、どう思っているのか口にしない(短い言葉で済ませる)傾向があるようだ。
感染症拡大の状況で、慎重な探り合いが日々行われている。
コンサート開催を決行するかどうかの判断が主催者である音楽家に任されているストレス・・・。オリンピックは行われたのに、個人は自粛や慎重な判断を求められるのだ。定収入があるか蓄えがあるかどうか、一人一人の状況は違うのに、国によっても補償が違うのに、表面に見える「コンサートやるかどうか」のみで判断される。どうやら、このスッキリしない探り合いがまだまだ続きそうだ。

コロナ禍で、ますます人の身体と心に大事なものは、直に伝わる音の共鳴、空気の振動だと思う。
オンかオフか、ゼロか1か、有るかか無いか、居るか居ないか、ではないコミュニケーションの大切さ。
言葉や音楽の持つ可能性。言葉や音にできなくても、身体から発する「何か」。

アンサンブルレッスンで若い人がちょっとした発見をしたり、色々試して弾いているうちに顔が明るくなったり、そのような反応があると、本当に嬉しい。
常日頃から探求し、演奏活動しながら学び続けている音楽家と音出しできると、頭と身体に血がめぐり元気になる。11月に予定している高橋弘治さんとのチェロのデュオ、とても楽しみ!無事に開催できますように!

ある一つのこと「全体」を知ることはいつまでたっても不可能だ。だから、いろんな人が同じ問題に取り組んで、様々な角度から見て、新しいことを発見できる。音楽はまさにそういうこと。コンクールで賞をとったり、メディアに出て知名度があることが大事ではない。
地味で継続的な音楽活動には、求める人が戻って来られる居場所を守り続ける意味がある。
ガット弦で音楽をする意味がある。
posted by makkida at 20:29| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2021年08月05日

拍の感じかた

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バロックや古典派、それ以前の古い音楽をするときに必要な拍の感じ方は、説明がいらないほど自然なリズム感だと思っていた。でも、いつの時代も誰かが記述を残しているということは、理解が難しい人もいるのだから、説明は必要ということ。
現代の定期的に「刻まれる」音、例えばデジタルの時計やメトロノーム、コンピュータ上で作られる音楽は、「不自然」なほど揃っている。私の感覚で言うと平面的で二次元的。
以前のリズム・拍子と体の動きでも書いたけれど、拍には準備が必要。拍から次の拍(音と置き換えてもいい)のタイミングは、前から予想されるもの。
時計の振り子、人の歩き方(もちろん身体的に無理な場合もあるけれども)、ボールやバネの跳ね方など。重力がある地球上で、物の動きにヒントがある。
振り子と電子のメトロノームでは、拍感が明らかに違うと思う。電子では次の動きが予測できない、体で感じられないのだ。拍から拍への速さ(拍の間の動き)が全く違う。振り子運動には、動きそのものがリズム感になる。これは視覚的な問題だけだろうか?

電子音がなかった時代、人間の心臓の速さや歩き方は大事な目安だったのでは?
posted by makkida at 16:06| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2021年07月11日

リズム・拍子と体の動き

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自然界は人間の行事や都合には構わずに、ときに優しく、ときに猛威を振るいます。人間がどんなに最先端の科学を利用しコンピュータを駆使したところで、自然の力はコントロールできません。

身体を使う運動や楽器演奏では、コントロールは常に必要なのでしょうか?
心の動きと、頭からの指令が筋肉へと伝達し、すべて繋がって身体は動くのでしょう。メカニズムに詳しい方はいらっしゃると思いますが、「自然に」というのはなかなか説明が難しいものです。でも、人はある動きが「自然」かどうか感じ取ることができます。

音楽にはリズム感がなくてはならないものです。外から与えられて頭で考えるものではなく、身体のなかに起こり、中から発するものです。外からの刺激がきっかけになる場合もありますが、何れにしても身体が反応します。
拍子を取るとき、一定のテンポを保てない人が多くいます。手で叩いたり、メトロノームに合わせてみたりしても、どうしても速くなるのは直せない。
拍の「点」(ポンっと打つ)は、突然そこに現れるのではありません。そして「点」から次の「点」のタイミングは、細かい物差しのようなもので数を数えて計る、一つの線上に平面的に存在するものではないのです。
拍には準備が必要です。音が始まる前に予想がある。動きの前に準備があります。
歩くときに、右を出したら左が出て、止めない限り足が交互に出て前進します。足を出すスピードが次の足を出すテンポを決めます。速さや足の上がる高さを変えると歩き方に変化が生まれます。下に足が着地するのだけを意識するのではなく、足が離れて上へ(小さな弧を描いて)空中で動くのを楽しむ。これはゆっくり歩くときに可能ですね。これがリズム感です。
色々なスピードや、足を上げる高さを一定にして歩いてみてください。拍の感じ方を身体が覚えます。
その感じで、手を打ってみる。手を打つ瞬間でなく、空中での動き、これが大事です。拍を打つ瞬間(「点」)は一瞬で、ベタっとした面積のあるものではないのです。拍と拍の間がリズムです。

発音や音を打つときの軽さや重さも、このリズム感や拍感が関連しています。弦楽器では弓が弦の上で弾み、バネを感じられるので、パーカッションの感覚がわかります。音の大きさや早さによって、弦にどのくらい深く食い込むのか、あるいは軽く触れるのか、直接感じることができます。その上、呼吸とともに弓を動かすことが容易なので、身体のあらゆる動きが楽器演奏に直結します。鍵盤奏者は実際に手が触れるのは目の前に並んだ鍵盤ですが、弦をハンマーが打ったり爪ではじいた時の振動や弾みをイメージするといいと思います。いいダンサーやフィギュアスケーターの動きを見るとイメージが湧きますね!

拍を感じようとして、頭を下に振る動作を多くの人はしますが、これが癖になると演奏中に音楽の流れやリズムを邪魔します。
18世紀イタリアのヴァイオリニスト、フランチェスコ・ジェミニアーニは彼が書いたヴァイオリン奏法(1751年)の中で「弓で拍を取ってはならない」と言っています。「なぜならそれに慣れてしまうとその癖から抜けられなくなるからである。それは不快であるばかりでなく、作曲者の意図を損ねることが多い。」

アンサンブルワークショップでは、このような動きの遊びもして、身体でリズムを感じて楽器演奏につなげていく試みをしています。
posted by makkida at 18:42| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2021年06月17日

楽しい練習

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譜読み&ある程度弾けるようになるまで練習して、休んで、練習して、本番したあと置いて、また弾いて発見して、練習して、本番・・・を繰り返すと自分のものになってくる。
1日のうちでも、練習して、考えて、休んで、練習して、休んで、考えて・・・。1時間で弾けるようになる、ように効率的にはいかないもの。
煮詰まったら散歩する。
うまくいかない日もある。寝るとまた新たなやる気が湧いて、前向きになれる(ときもある)。
他のことに取り組んで、何年か後にまた戻ってくると、新しい扉が開く。理想の形が決まっているのではない。イメージが自由に沸き起こる。弾き方がもっと身体の感覚でとらえられるようになり、練習の仕方に結びつき、理解が深まっていく。
なぜ、演奏するために勉強し、理解に時間がかかるのか?
現代の演奏家は過去数百年、現在に至るまでの音楽、そして自分のではなく他の人の作品を演奏するから。
逆に言えば、何百年も前の音楽を演奏するには、当時の習慣や様式、演奏法を知らなければならない。楽譜には書いていない、当時の人の「当たり前」。楽譜に書けないのは、過去の音楽に限らず、例えば作品(作曲者)の言語が持つアクセントの特徴からくるリズムや抑揚や節回し、しゃべり方とも言える、も同じだと思う。
それらを知るために必要な、頭の柔軟性。
これは、現代社会の「多様性」にもつながるのではないだろうか。
立場上の表面的な体裁を気にして、本質を語らないことで事業(催し)をやりやすくすると、資金まわりも格好がつくし、確かに実績を次々に積むことができる。しかし、大切なことは、何を見て何をしようとしているかという姿勢だと思う。人種や国籍や出生や性別、時の政権による社会的に生きづらい、自由がない状況が世界中に多くあることを考えれば、表現の自由な音楽ができることは貴重で大事なこと。
音楽の仕事には終わりがない。長い時間軸で。大きな視点で。
飽きずに喜んで続けられる作品、というのも大事😉
posted by makkida at 18:31| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2021年04月10日

発想の転換、そしてとにかくやってみること

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暖かくなっても、気温の下がる日もあり、ここでは雪が降りうっすら積もりました。季節の変わり目、コロナも色々な型が猛威を振るってますし、疲れすぎないように気をつけてお過ごしください。

人それぞれ性格も体格も違います。考え方も違います。
楽器を演奏する人が西洋音楽の歴史や理論や様々な知識を学ぶことは必要です。それを、どうやって演奏につなげていくか。これは、初めから最後まで(きっと肉体的に弾けなくなるまで)の課題です。
知識は人から教わることができます。本を読んで学ぶことができます。
演奏は?
楽器の構え方、弓の持ち方、動かし方など。楽器を弾く、ということは、自分自身の問題です。答えは自分の中にしかありません。
もちろん、周りの人の助言や意見の端々からヒントをもらえるし、または、今では動画という便利なツールもあり、海外の演奏家の奏法をじっくり見ることができます。
ただ、体つき、例えば筋肉の質、骨格、臓器が自分と同じ人はいません。
モダンの奏法(楽器の持ち方含め)は、楽器の構造上(例えば、テンションの高い調整、テンションの高い弦)、ある程度、訓練ということが必要です。その音楽にあった身体つきの人には自然かもしれないが、小柄で繊細で、あまり力がない人には、太く岩のようなゴツい音やアタックが強い音楽に合わせるのが無理な場合もある。そう考えると、鍛えてムキムキに力強くなれるかというと、無理なわけです。筋肉の質も骨格も、向き不向きがあると思います。
ですから、知識がある人が、演奏者の抱えている問題を考慮せずに批判するのは残酷です。

どうして弾けないのだろう。きっと何かできない理由があるのだろう。そもそも、そう弾きたくないのかもしれない。
楽器の調整や、弦や弓の種類も考えなくてはいけない。持っている楽器がその音楽に合っているかどうか、全てに合わせることは不可能です。オールマイティという発想は、有機的な音楽から離れてしまいます。だからって、何種類も楽器を持つことなんて到底無理。

言葉を話すより前から楽器を弾いていたとか、3歳くらいから楽器を始めた人にとっては、持ち方や奏法について苦労をすることはないのでしょうが・・・。

バロックの楽器の持ち方や奏法は、現代を知っている私たちから遡る、という当たり前の見方を、逆転することが求められます。
喋ることが楽器を弾くことのようなところがあり、現代の音楽よりリラックスした奏法、つまり、外から加える力がそんなに必要ない。自分の内側のエネルギーを軽やかに繊細に表すのが理想ですが、チェロなど大きな楽器になると、そうも言っていられない・・・。
いくら研究して考えても、正しい答えはないでしょう。
昔も色々な体格、性格の人がいて、音楽様式があり、奏法があった。知識と自分の身体と。ずーっと試行錯誤しながら、そうだったかもしれない、きっとそうだろう、ということを自分の中でどうやって見つけるか。
演奏活動しながら勉強、勉強しながら演奏するしかない。怖がっていてはいつまでも見つけられない。
posted by makkida at 14:59| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2020年07月26日

楽器に聞く

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また雨、まだ雨。よく降ります。ものすごく蒸しているこの頃。梅雨はいつ明けるんでしょう。。。
カラッとした空気が早く来て欲しい。

こんな本があります。
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300年、400年前に作られた弦楽器はただの道具ではなく、生命を感じます。
イタリアのどこかの工房で生まれ、人から人へ誰か演奏家に所有されて、宮廷やサロンやコンサートで優れた演奏者によって弾かれたり、アマチュア奏者が家庭で楽しむためだったり、弾き手によって出される音色も変化してきました。その度に様々な状況に置かれ、戦争をかいくぐって。零下何十度で弾かれることもあったかもしれないし、高温多湿のアジアにやってきたり。

昔から名器を模倣して楽器つくりを学ぶ、ということを楽器職人はやってきました。何百年も前のオリジナルの名器は数が限られていますし、いい状態で残っているオールドの楽器は値段が高くなります。弓も同じです。
いわゆる古楽復興が起こって以来、古い弓や楽器を現代の楽器職人がコピーして作ったものを多くの演奏家は使います。
バロックヴァイオリンとかバロックチェロと呼ばれるものは、ヴィヴァルディやバッハの生きていた頃に現存していた楽器をそのまま使っている、というのではありません。古い楽器は19世紀20世紀の音楽様式に合わせて、楽器は調整され、修理されて今に至っています。ネックの角度、指板の長さや幅や太さ、駒の形など、本体(胴体)以外は、時代の変化に合わせて調整されています。それを、バロックのスタイルに戻した、ということになります。
もちろん、現在の楽器職人による新作の場合もあります。
古い文献を学び、研究して、その当時のものを作ることは職人にとって大事な仕事です。
演奏家もにとっても同じように大事なことです。それだけでなく、演奏技術も楽譜や文献から学び、想像し、探求します。

頭で理解するだけではなく、演奏家にとって忘れてはならない、とても大切な感覚があります。
それは、生命を持つ楽器から学ぶ、という作業です。

楽譜や文献は読めますが、どんな音が出ていたか、実際の音はわかりません。楽器や弓をそっくりにコピーしても、音は誰にもわからない。推測しかできません。正しい答えはない。
昔の演奏技術を知っているのは、古い楽器ではないだろうか?
1600年代1700年代に弾かれていた楽器は、当時の演奏家の技術や音を覚えているはずです。

特に弓の動きについて、楽器に聞きたい。

ヴァイオリンを弾くときの弓の動きは、ダウンボウは重力に従って腕の重さでストンと下へ落ち、アップボウは上に向かいます。天に向かって上がり、地面に向かって下がる。イメージしやすい自然な運動です。
チェロは横の動きです。この楽器は、演奏者の意思がとても大事なんだとつくづく思います。自然に任せていたら弓が手を離れて落ちてしまう。横に動かさなければ音は出ません。
新しく作られたばかりのバロックボウを使うとき、楽器が自分の言葉を喋るためには、人間がどう考えているか(何もアイデアがないか)、何をしたいか(あるいは、どうしたいかわからないとか)、顕著に現れます。新しい弓でも喋り方は教えてくれるかもしれない。でも、音楽の中身、内容はどうだろう。
オールドの弓は音の種類、表現の種類、深さがあります。演奏家が知らないことを知っているのです。

ああ、完璧な組み合わせなど無理!
試行錯誤をしながら、楽器とともに学んでいくしかないのです。
posted by makkida at 23:40| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2020年05月16日

技術を常に新たにする

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義母の実家、義伯母でチェンバロ奏者だった有賀のゆりさんの遺品の片付け…というより、改築前の一族の引っ越し。昨日引っ越し屋が大量の荷物を運び終わったところ。でもまだ家の中は空になっておらず・・・(笑)処分するものが山積み。今日は、バッハのフーガの技法をCDで聴きながら、リサイクルに出せそうな家具を磨いているところ。
さて、遺された物とは。
音楽学や中世から近現代に至る音楽史、作曲家に関する膨大な本、楽譜、レコード、自身の演奏の録音(オープンリールテープも)、アメリカ留学以前からの勉強したノートや資料、学生に教えるための資料や試験問題(!)、自身の論文や書き物、手紙、写真、共演した海外からの一流音楽家とのコンサートや地元の若い音楽家のコンサートのプログラム、使っていない原稿用紙やタイピング用紙、ハガキや便箋も・・・。

大人物は、後に残るものをどうするか心配せずにどんどん溜められるのだ!捨てることを考えて買い物をするのは小物だなぁ、なんて思ってしまう。私もまだ処分することよりも自分に取り込む欲を持たないと、と励まされる(笑)。
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それにしても、すごい勉強量。
敗戦後数年で留学したアメリカでは、専攻のピアノ以外に、音楽学や音楽史、和声など基礎を学んだあと、パーセルの研究で論文を書きマスターの学位を取得。丁寧に記されたノート(日本語、英語、ドイツ語)が残っている。合唱の楽譜も大量にあるのは、のちに日本で音大や教会でクワイヤ(合唱)指導をすることにも繋がっているのだろう。
それから、ピアノソナタをオーケストレーションしたり、べートーヴェンの作品18の弦楽四重奏曲の楽曲分析をした跡が。
十二音技法の音列をたくさん挙げたノートも見つかった。のゆりさんがシェーンベルクなどを演奏したかどうかは知らないが、当時、半世紀前の音楽はまだ新鮮だっただろう。
プロコフィエフ、バルトーク、ヒンデミットにも興味があったのではないかと思うが、やはりバロックや古典の音楽に回帰し再発見をする音楽家として納得。
広がりを持った勉強し、レポートをまとめ、演奏や文を発表し、教授活動をし、様々な人とアンサンブルすることは、人間と表現の幅を豊かにするのだと思う。
演奏家にとって最も大事なのは楽器、それから楽譜(作曲家の自筆譜)。
特に、楽譜を読んで頭で音を鳴らすこと。結構偉い先生でも、録音されたものばかり聴いて勉強する。が、生で聴くのとは別のものであり、特にアンサンブルやオーケストラはCDのように全ての楽器が明瞭には聴こえない。生演奏では立体的に、奥行き(表に出る音と陰の音など)がある響きになる。生きた音とは、演奏する人の呼吸、空気の流れ(早さ、遅さ)、聴こえない音も含めたエネルギーだ。
よく誤解されているのが、アンサンブルができるイコール「なんでもいつでも合わせられる」という考え方。発音、音の消え方切れ方、膨らみ方、つまり縦が合えば、いいアンサンブルになるとは私は思わない。音楽が続く間は、演奏家同士のエネルギーが一緒に流れていく、その見えない波動の合い方が、結果、ぴったり合うアンサンブルになるのだと思う。

話が逸れた。

自分が学生だったときに教わったやり方で何年も教え続けている先生もいる。そういう人が、今、有名な人の演奏を聴いて、この人のように弾けるようにしなさい、と生徒に言うのは怠惰だ。今の流行を表面的に捉えて次の世代に伝えたところで、芸術の本質が何百年も伝わっていくだろうか。

もし、演奏で商売をしたり芸能人になるより、芸術の道を孤独に歩みたい「変わった」人ならば。一つのことから次々に興味が広がり、理解が深まる勉強に夢中になり、演奏に繋がることに喜びを覚えるなら、コンクールを受ける必要はないと思う。余力があればコンクールを受ければいい(もしくは賞金をもらうため)。
自分を伸ばす方法はたくさんあるはずだ。大学の名前や権威ではなく、信頼おける人を見つけて、没頭できることに突き進んで行ったほうがいい。幅の広い、生きた勉強と研究がしたければ、日本の音大に行くよりも海外に出てしまうほうがいいと思う。もし自らがそれを望むなら。

先生は万能ではないのだから、わからないことや苦手な分野はある。ある作品の技術や知識を教えるのが無理な場合もある。その分野に詳しい他の先生を紹介したり、本や様々な機会を勧めるには、先生自身が常に勉強を続け、能力や技術を磨き続けていないとできない。そのように、心の開かれた、信頼できる先生と出会った人は幸せだ。

偉い先生についたら上手くなれるのではないし、成功のレールに乗れるのでもない。
音楽史上、時代の変遷、社会の変化とともに音楽の様式が変わり、演奏技術も発展してきた。あちこちで個々人が新たな技術を考え身につけて、生徒に伝え、他の演奏家に影響を与えてきた。
それでは、時代とともに人間は進化してきたのか?人は常に新しく生まれてくるし、いつの歴史も繰り返す通り、それぞれが自分自身の技術や能力を育てなければならない。育つ環境や土台の有る無しには、少なからず差があるけれど、前の世代に大天才が偉大な仕事をしても、「私」はその技術は持っていない。誰でも新しく技術を発見し伸ばしていくことができる。






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2020年04月27日

意識と身体の疲れ

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最近、PCで作業を長時間した後、人先指が痛むようになりました。時間を忘れてPCで調べ物していたからか。
以前、マウスを使っていたときは、例えば、チラシ作成をすると手首の痛みがひどくなったので、トラックパッドになって楽だ〜、と初めは喜んでいたのですが・・・。検索すると同じ症状の人、多いようですね。腱鞘炎にならないようにしよう。

一昨年作った味噌が結構上手くできたので、今年も作ろうと思って、有機大豆を買っておいた。やっと、仕込み完了!麹と大豆を混ぜるのが気持ちいい。そのせいか、手がスベスベ。
煮た大豆をビニール袋に入れて空きビンを使って潰そうとしたが、袋が破けたので、結局マッシャーと擂り粉木で。おかげでずっと親指が痛い。
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身体が痛くなると、使い方を意識するようになります。膝が痛む時、地面に着地する足裏の着き方を気にするとか。手や指が痛むときは、腕全体で、瓶の蓋を回すとか、いつもと少し角度を変えて食器洗いのスポンジを使うとか。弓の持ち方も同じです。
癖に気づくこともできます。身体の末端に過剰な力を入れすぎているかもしれない。
痛くない時にずっと意識して練習し、その動きが身につけばいいのだろう。日常生活での動きを意識していればいいのだろうけど・・・。
調子いいときは疲労する手前です。
楽譜を見て→音形をどう弾くか、体をどう使うか頭が動かしながら弾き、同時に耳で近くの音、相手とのバランス、空間の響きを聴いている。考えること、楽器を弾くことについてフル回転で意識をし、身体が覚えるまで脳みそがめいっぱい汗をかいて練習する(だから集中力は持たない。そんな練習、一日6時間もできるものではない)。
言い換えると、余計な力が入らないようになるまで身体に覚え込ませる、ということになるかな。

料理しながらラジオや音楽を聴くのが好き。社会、政治の時事問題を扱う番組がだんだん減ってきているのが残念。
最近、レコードはやっぱり音がいいなあ、と思います。Antonio Martín y Collの楽しいダンスの音楽をAntonio Bacieroが小さなパイプオルガンやチェンバロ、クラヴィコードで録音しているレコード。奇を衒わず、同じテーマが変化しながらずっと回って続くのを、丁寧なリズムのタッチで弾いているのが、とても落ち着きます。エンドレスに回っていてほしいけど、レコードはすぐ片面終わってしまう・・・。
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コロナ休みと関係なく、私の一日の仕事(練習も勉強も含めて)は全く変わらない。ただ、やっぱり、開放感が得られない分、疲れやすい。海外でフリーの芸術家に素早い支援が行われ、芸術が普段からお飾りや贅沢品ではなく社会にとって必要であることを聞くと、日本では組織に属していない限り、または権威ある肩書きや有名でないと価値がないような、趣味としか思われていないような気持ち、ここには居たくない気持ちになる。
憂鬱が続く。家に埃かぶっている古い物を片付けてどんどん捨てたい、頭の中の悪い考えを廃棄したいモードに入っていた、と振り返ったら、新月に向かっていた時期でした。ただのいつもの脳のクセかもしれないけど・・。
ハイテンションの時は、掃除やりながら、何か洗い物して、行った先で次々に気になることを見つけ・・・同時進行で始めてしまい、何時までに終わらせたら練習にとりかかるぞ、と、初めは頭がフル回転してるのだけれども、途中で疲れてきて、もう無理、自分に怒ってしまう。
できないんだから、欲張らないことだな。

生き物がみんな笑っている!
The Biggest Little Farm🐖🐑🐄🐓🐕👫🌲🌱🌼🐞🐝🌿
https://kokocara.pal-system.co.jp/2020/03/23/the-biggest-little-farm/

色々この先の心配事を考えて煮詰まってきたら、楽器を弾くと頭がスッキリして心が軽くなります。人は苦手なことより、好きなことをする方が精神状態がよくなる・・・当たり前だけれども。

心の安定上、いいこと。
深い呼吸に尽きる。森林の中にいるような気分になって、足裏では大地を感じて。
弓のゆっくりの動きの練習。呼吸を止めないで。
https://www.instagram.com/p/BuXxLEDhRYx/?utm_source=ig_web_copy_link

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豆苗がぐんぐん伸びます。
近所を散歩していて思う、家を建てるときに敷地には木を一本でも植えるようにすればいいのに。都会は土地が高くて狭いから、敷地いっぱいに建てるからしょうがないけど。アスファルトやコンクリートで土が覆われて、息苦しい。それでも植物は隙間から生き延びようとしている。
窓やドアを開けると森があって、鳥の鳴き声が聞こえて、練習に疲れたら木々や葉っぱが風に揺れるのを聞きながら野山を歩く。北欧の景色。そんな場所に住みたい、こうやって空想に逃げる。

「看護婦さんが患者さんと接して心がつながったときは非常に美しい看護になる、それは芸術の生まれる瞬間というか、美が生まれる瞬間と同じだと思う−ーーそうおっしゃるのを聞いて、私は、物書きや芸術家など表現に関わっている人からは聞かれないような、とても新鮮な表現の本質、美の本質を聞いたような気がしました。」(『石牟礼道子対談集 魂の言葉を紡ぐ』より)



posted by makkida at 19:38| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2020年04月21日

音楽家には休みはない

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弦楽器奏者にしかわからない、指や手や耳など体と楽器との繊細な感覚。弾かないと気持ち悪くなり居心地悪い感じ。
感染症が流行してコンサートという仕事がなくなっても、楽器を弾くという自らの仕事は何も変わりません。収入のある仕事がないからって練習や勉強しないのではありません。
本質的には、一曲いくら、一音いくら、一つのヴィブラートがいくら、で音楽をやっているのではないのです。もちろん、音楽家が無償で演奏を依頼されることは良くないと思っていますが、それとは別の話。
音楽や楽器の理解は、自分自身の問題です。

こんな状況でも、身近な人が音楽に慰められるかもしない、元気づけられるかもしれない。気持ちも、身体も、いつでも弾く備えができている、理想ではそうありたい。日々の生活では難しいけれど、理想を持っていること、それからほんの僅かでも続けること。

今日のゆるゆる動き✨ ✨ ✨ ✨ ✨
肩を上に持ち上げ(耳に引き寄せ)、首(頭)を前へ倒したり、後ろへ倒したり。息を静かに吐いたり吸ったりしながら。
右向いたり、左向いたり。目線も一緒に。首の動きが悪いときは、動かす方向へ目を先に動かして。
痛くない人は、ゆっくり前へ回したり、後ろへ回したり、一周回したり。
ゴリゴリ音が鳴らないように、無理ないように、呼吸を止めないで、ゆ〜っくりゆ〜っくり。

よい一日を!
posted by makkida at 10:34| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2020年04月18日

気づいたときに深い呼吸5分

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外は大雨。
家でスマホやパソコン見ることが増え、首や背中が硬直する。いつもより増えた家事に追われて、気持ちが落ち着かない。
気づくと息が浅くなっています。
そんなときは、深い呼吸を。3分でも5分でも、1分でもいい。1日何回でも気づいたときに。

息をゆっくり吐いて、吐ききって、お腹がぺったんこ。
そうしたら自然と息が入ってお腹が膨らむ。
がんばらないで。力が入らないように。

座ったままでも、立ってでも。

立ったときは、足裏から息を吐くイメージ。
地球の中へ内側へ、ズーっと入っていく。
吐ききったら、
地球の深いところから息を吸い上げるイメージ。
足裏から息がだんだん入っていきます、脛、ふくらはぎ、腰、背中、首、頭。

息を吐くとき、声を出してみてもいい。ふ〜、う〜、あ〜、でもなんでも自然に出る声で。
ゆっくり、力を入れないように、好きなだけ。
深い呼吸をして、ネガティブな考え、嫌なこと、悪いものを吐ききってしまおう!

身体の中がゆったり呼吸になってから、楽器を弾きます。
ワークショップが再開できるまで、それぞれお家でやってみてくださいね。

✨  ✨  ✨  ✨  ✨  ✨  ✨  ✨  ✨  ✨ 

posted by makkida at 09:40| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2020年03月27日

カラダと宇宙

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らせん。睡蓮はまだ水の中で眠っている。

こどもはマーマレードジャムの中に没頭する。くまのパディントンのように、ハチミツやマーマレードをパンやパンケーキにつけて手で食べ始めると、そこらじゅうベタベタになるんだ。

私は幼少期、土の上を裸足で遊んだり泥んこになったり、木登りしたり、雑木林を駆け回ったり、秘密基地を作ったり、色々掘ったりしていた。自然の中にいることが自然。木々の間を歩いていると、自然の中に自分がいて、私の中に自然がある。空気の中に私があり、私の中に空気がある。そうして境目がなくなっていく。
カラダの中が大きな空洞になっていき、突然、私の中に宇宙があると感じた。

くまの子ウーフのめんどりが身体じゅう卵でいっぱいなように。
その人の真実の言葉を持っている人は、身体中言葉でいっぱいで、その人の真実の音楽を持っている人は、身体中音楽でいっぱいなんだ。
それは、その人の世界、宇宙。
星と星がぶつからないで、距離を保ちながら宇宙全体が動いているように。人と人も、人の世界それぞれは、ほかの惑星ほど離れている。

頭の言葉で説明できないこと。

だから、たくさんの人の感想文を集めたものなんて、一気に読めるものではない。星と星ほど違うんだから。星に引越しするくらい大変な移動。
だけれども、星々は宇宙の中にある。

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雨降る前は匂いがする。
雨や雪がどんどん降っているときは小鳥たちは静かにしている。小降りになってちょっと光が射すと、ツピー、と鳴く。わかるんだね。

頭の言葉で、自然の中にいることの気持ちよさが説明できないように。
人の気持ちは理解できるものではない、と10代のときに思った。
自分が感じていることを、体の中をいっぱいの感動で満たしている音楽のことを、一生懸命言葉で表そうとしても、音葉を尽くせば尽くすほど、ウソになる、と10代のときに思った。

人はちっとも成長しない。大事なことは子どものときに分かっている。その「わかる」とは、頭の言葉じゃなく、体で感じていること。
音楽はそういうもの。
未熟である自分の音楽が立派なわけがない。
でも、イメージが音になるのが面白くて、ずっと音楽をやっている。

音とは何か、どのように楽器が響くのか、説明は可能だ。だけれども、その人の、その時の音がどうして出るのか、説明はできない。
ヒルデガルトの言葉は今はいらない。伝わるものは説明ではないから。人が見たヴィジョンの理解は、頭や知識ではないから。
音や光や匂いのような形のないものの中に自分がいる。


posted by makkida at 19:12| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2020年03月20日

解き放つ!

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ここ数日、信濃町野尻の家に滞在しています。気温が20度に上がった日の翌日に雪が降ったりしますが、あちこちに福寿草や蕗の薹が顔を出しています。IMG_4843.JPG
自然の恵みにありがとう。今日の収穫。
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倒木の処理、伐採があちらこちらで。森林の手入れは大事な仕事ですね。
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雪が少ないとはいえ、山笑う、までにはもう少しの黒姫山。ようやく起き出した山では、芽吹いてくると、山がホワホワと柔らかく見えます。
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このところのマスク売り切れに引き続き、医療用ガーゼも入手困難だそうです。持病があったり、手術の後で、日に何度かガーゼの交換が必要な人がいます。医療用ガーゼがないと生きていかれない人が困らないように!
ちょっと俯瞰して行動する、思いを馳せる、想像する、というようなことは異常事態でも、災害でももちろん、常日頃から心がけたいものです。

さて、入国制限、渡航中止や外出禁止のニュースをみると、しばらく演奏会できないのもしょうがないな、と思うこの頃。
音楽配信について本気で考えてみようかな。パソコンで録画して動画配信したものを自宅にじっとしている人に届けられないかな、と録画して見たものの、あまりに音質が酷すぎて・・・苦笑。チェロの低音はとてもパソコンで手軽に録れるものではありません。残念ながら。
でも、録画することによって、自分の弾き方の問題点が見えました。気づくのは面白いです。映像でお見せできるほどになったら、動画も作って見たいなと思います(笑)。

当然ですが、上半身の支え(特に胸)がないと、右手の動きが悪くなります。弓が弦にうまく乗らない(吸いつく感覚が持てない)問題は、姿勢でおおかた解決できます。人間(動物)は、部分で動くわけではありませんから。顔の強張りや表情も弾く時の姿勢に関係することに気づきます。弾いているとすぐ疲れる(頭が疲れるのも)のは姿勢にもよると思います。
膝に抱える姿勢は、楽器が小ぶりならまだいいですが、なかなか楽ではありません。モダンチェロでも同じ。足の長さだけでなく、全体の骨格が立派な方が有利で、肩幅があって胸が厚い方がチェロには向いていると思います(手のひらや指の作りも関係しますし)。私はチェロ弾きにしては胸板が薄いので、どうしても首への負担がきます。
わが身を俯瞰して見る。脳みそのクセは、身体の使い方に表れるのでしょう。
開放されたいですね!


posted by makkida at 22:54| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2019年12月05日

カラダは嘘をつかない

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演奏をする、という行為は、楽器を弾く技術を向上すればなんとかなるものではない、そして、クラシック音楽は知的な要素が必要であることもご存知の通り。

大学院にいる間に一度、留学しようと試みたことがあったが、手続きがうまくいかず、休学も取りやめて復学。ヨーロッパに行けない分、基礎をやり直す、なんて目標決めて、夏休み中、音階やポジションチェンジなど基礎練習ばかりやった。曲も弾かずに。その挙句、気持ちが表に出せなくなり、曲を弾くとき左手のポジションチェンジが怖くなった。食欲がなかったわけではないのに一ヶ月で5キロ痩せた。
心が閉じて、硬くなったら、楽器は弾けないのだ。
熱意のない基礎練習、反復練習なんて、カラダはやりたくなかったのだ。拒絶していたのだ。

室内楽、特に弦楽四重奏は私にとってとても大切だ。ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルト、バルトーク・・・残された作品が素晴らしい。音楽の内容の奥深さや難しさを解いていく過程に長い年月かける意義がある。4人の個がそれぞれの音楽を持って、その芸術作品と合わさった時に、不思議な力が与えられる瞬間がある。過去の音楽家が苦悩しつつまっすぐに己と向き合い、そのとき、そのときに「これしかない」「これだ」と生まれた音、作品。何十年、何百年経った今、演奏する者も、「これだ」という音を見つける。本番まで答えが見つからなくても、コンサートで4人がまっすぐに音楽と向き合っているとき、どっぷり音楽に入っているとき、「これだ」という瞬間がある。
ああ、これを聴き手も待っているんだと思う。

そんな思い入れがあったので、なんとか理由を見つけて続けた。気持ちも音も言葉もピタっとしていなかったのに、「このグループに10年後いる姿が思い浮かばない」「一生続ける場所ではない」と分かっていたのに。
世の中で認められている地位にある団体に属し、そこでうまく役割を果たせれば、「私が」自分を認められる、と考えた。正しいのだ、と思った。今、私が勉強すべきなんだ。いつかできるようになるはず。馴染めない自分、できない自分がダメなんだ、と。

カラダは嫌だと言っていた。
萎縮してしまう。音が出ない。笑顔が出ない。思っていることを話せなかった。
リハーサルも休みたくてしょうがなかったが、できない理由は見つからない。
とうとう、足が動かなくなった。ノンステップバスで足が上がらず、あの低いステップに足を引っ掛けて転んだ。その瞬間、いや、しばらく痛みを感じなかった。血が止まらないのを運転手が見て、バスを止めることになってしまった。生まれて初めて救急車に乗った、チェロと一緒に。そして運ばれた病院で12針縫った。そのあと電車に乗り1時間かけて帰宅することに麻酔が切れて痛みを感じた。
電車で揺られながら、ああ、明日のリハーサルは休める、とホッとした。

一緒に弾けて楽しい、という一番大事なことが抜けていて、どうしてお客さんに喜んでもらえるんだろう。
楽譜にあることを理解しようとし、勉強や練習は熱心にやっていたかもしれない。根っこを忘れた、ショーケースに入ったような音楽が、人の心に伝わるんだろうか。
生演奏は完璧な形に作り上げることはできないと思う。その瞬間は最高の仕事を精一杯したとしても。高く険しい山であればあるだけ、高い理想があればあるだけ、どんどん遠ざかる。人間は完璧ではない。
でも、人間を信じ、人間は善であるだろうことを信じ、音楽を信じ、大いなる存在が導くことを信じられる、そんな音楽が存在すること、その音を表現できることに喜びを感じ、毎回、心が震えるのだ。ベートーヴェンのカルテットには、特に中期後期の作品にはそれがある!

日々どこを向いているか、で歩いて行った先はだいぶ変わる。
異文化に出かけて「まだ無い」道を自分で切り開き、時間をかけて隣人と付き合い認め合って、多くの人の命を大切にした人を想う。






posted by makkida at 01:07| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2019年11月06日

不器用に生きること

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ギャラリー古藤さんにて無伴奏チェロ&羊とヤギ&写真展、無事終了しました。お集まりくださったみなさま、ギャラリー古藤さん、応援してくださった方々、どうもありがとうございました。写真の展示の準備が何よりたいへんでしたが、今まで《羊とヤギ》で演奏して来たヒルデガルトの音楽が、ゆかりの地の写真をみなさんにご覧いただくことによって、少しでも近い存在として印象を残していただけたのではないかと感じております。
1日に3回コンサートをすると、それぞれの回でお客さまの素敵な興味深い話があり、広がりがあり(それがどの回だったか忘れてしまうほど!)、本当に豊かな出会いをいただきました。オリジナリティのある活動をされていたり、困難にある人を助ける方や、病気を持った方、こんなに経験豊富な方々にお聴きいただけて感謝でいっぱいです。演奏家はいいところも弱いところも全てさらけ出し、それでも、みなさんは喜んでくださる。お客さまに感動します。

色々な教会の牧師さんの説教を聞くと、聖書の解説に留まらず、自分はどうして牧師になったか、己の生き方を聖書のどこに見つけているか、社会の問題を聖書のどの部分と繋げているか、どうしてこの聖句を選ぶのか、言葉を大事にするのか、内面の告白のようなものに触れるときがあります。若いときに出会った人(の死)や事柄についてずっと考え続け、牧師になろうとした大きなきっかけになった、とか。

お金を稼ぐためだけなら、深く思い詰めるほどの理由がなくても仕事は見つけられるだろうに。
音楽家も同じだなあ、と思うのです。
どうしてこの音が存在するのだろう、と身体でいちいち納得しなくても、鍵盤を押せば音は鳴るし、弦のこの場所を抑えて弓を擦れば音程は作れる。
大きな音から小さな音まで出せて、速く指が回って、ゆっくりのロングトーンも出せて、ポジションチェンジは繰り返し訓練して、あらゆる技術を身につけて、たくさんの曲を勉強すれば、職業として成り立ちます。どんどんこなしていけます。もちろん人付き合いも大事ですが、ハッキリと物を言わなければ嫌われません。

一方で、「音が存在する」ことを宇宙の動きとともに捉えている人間もいるのです。
災害があるときに、音楽なんてやっていていいんだろうか、明日生きられるかわからない状況で「役に立つ」ものでないかもしれないのに、人間が生きるのにどうしても必要なもの。
アカデミックな勉強をした人は、クラシック音楽ではこういう決まりがある、ということをベースにしています。ああ、こんなこと、どうなんだろう!!!
上行形はクレッシェンド、下降形はディミヌエンド。どうしてそうなんだと思う?
自然のエネルギーはどうなんだ?軽やかに駆け上がるときと、重いものがひとつひとつ持ち上がっていくときのエネルギーや、転げ落ちるときと、踏ん張りながら降りるときのエネルギーは違うじゃないか。音楽は元をたどれば自然界から生まれたもので、人間の生活の中から生まれたもの。
人間が決めたことは誰かが決めたこと。
ある時代やある様式、作曲家、その作品、それぞれに特徴を見出すのが演奏家の仕事でしょう。その「語法」を見つけて技術を試行錯誤し、喋り方を音にする。それが自分の身体に入ってくる。
音程の取り方ひとつだって、たくさん気づくことがある。まず自分の楽器の素の声はどんなだ?弓をどのくらいのスピードで、腕の重さ(圧力)はどのくらいかけたらどんな倍音が出るか。うねりはどうか。共鳴しているか。重音の弾き方は。どのようにハモらせるか。二つの音のバランスは・・・。余計な力が入っていたら楽器は鳴らない、共鳴しない。今、体はどんな状態か、呼吸は自然かどうか。弓の毛が弦に触れる感触。弦の振動を感じる指。
気づくことは山ほどある。
楽器が喜んでいるかどうか。音楽と身体がぴったりきているかどうか。そして頭と身体が開いて、音が素直に出ているかどうか。嘘がないかどうか。

そういうことをずっと考えて、いい音を出したいと思ってやってきました。呼吸するのと同じように音を出し、弾くことで癒される。音楽が私にとってなくてはならない存在です。
私の音を聴きたいと思ってくださる方からは、こうやって時間をかけてやってきたことが決して無駄ではなかったと励まされます。
だからこそ私に出せる音なんだろうと思うのです。
posted by makkida at 22:55| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2019年09月29日

ガット弦で弾くとは、アンサンブル、ともに作る音楽とは!

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弦楽器を弾くことの素晴らしさのひとつは、弦に当たる弓の感触があり、それによって様々な音色が作れたり、歌うように、あるいは弾むように、多彩な表現が自由にできるということだ。演奏者の大事にしていることがそのまま弾き方に表れる。
倍音を多く持つガット弦を使うということは、色の種類が格段に増え、人間の息や声にグッと近づく、ということだ。天然素材だからこそ、弓が弦に触れる時の様々な感触をよりよく感じられる。愛情なしで弾けるだろうか?
重力のある地球上で行うことは、抵抗、摩擦なしでは考えられない。弓で弦を擦るとき、摩擦をうまく利用している。上からの圧力が強すぎれば音が潰れる。弱すぎれば音がかすれる、音にならない。摩擦を限りなく少なくして素早く走らせたり。抵抗を感じつつ、細く優しい音から、豊かな膨らみを作り、繊細に消えて行ったり。息の速さと弓をぴったりあわせ、指の動きとも合わせる。抵抗の中のリズム。
どれだけの音があるだろう!
ある作品を弾くときに、メカニックができてから音楽のことを考えるのではない。決して!
どんな音で弾くか、どんな音楽かイメージができてから、その音を作るために技術があるのだ。テクニックはとても大事だ。
音楽と技術、どちらかが一人歩きはしない。演奏者の身体(頭、心も含めたカラダ)と結びついている。
表現は、身体の内側から湧き上がってくるものだ。
どんなに超絶技巧でも、あなた/私の身体の内側から出てくるものでなければ、それはその音楽(作品)とは無関係である。

そして、アンサンブルでは、リハーサルでも、当然本番中でも、お互いの体内から湧き出る表現(どんな音を出しているか)を無視して一緒に弾くことはできないはず。そのことが、音を合わせること、一緒に弾くことの最大の面白さなのだ。
それぞれが音楽と向き合い、主体的に考え、内側から音を出す、その一人一人が意見を出し合いながら、今、出ている音に反応し、音を聴きあいながら一緒に音楽をすることで、音楽(内面)の世界がぐっと広がる。これが室内楽の醍醐味!
有名でお客さんをいっぱい(お金)を集められるリーダーの音楽的アイデアにただ従うのは、音楽の本質から離れてしまう危険がある。一人一人の声が聞こえず、共演者の意思やアイデアと無関係になり、本質から離れてしまうなら、どこかの国の政治家と同じではないか!
音楽をやっていれば世界が平和であるのではない。

指ができるだけ速く動くことに夢中になると、呼吸が浅くなり、呼吸を忘れてしまい、フレーズの終わりを飲み込んでしまうことがある。最後まで音を丁寧に弾かずにどんどん次へ進んでしまう。メロディを持つ人に合わせようと、他の人たちも慌ててついて行き、息苦しい音楽になる。フレーズの最後まで音を聴くのは、それぞれの言葉を最後まで聴くようなもの。これが音の処理であり、フレーズの閉じ方、ハーモニー(和声)の感じ方、弾き方となる。
また、頭うちのリズムの捉え方、弾き方をしていると、ただ速さだけが目立ってしまう。どんな速いパッセージにもスイングがあり、その揺れの流れの中にリズムがある。
フレージングも、弓の動きも、音のシェイプも、音楽は弧を描くのだ。
弧を描いて飛んで行った音を相手が受け止め、聴き手が受け止め、空間にはたくさんの虹や円ができる!ボールが弾むような自然の摂理のリズム感。バッハはなんて心地よいスイングなんだろう!

速い曲でも一度はみんなでゆっくり弾いて、和声や誰が何をやっているか、動きの変化を味わってみるのは新鮮な発見がある。耳で確認したあとに速く弾くと、色々なものが鮮明になり、違って聴こえるだろう。
どんなに技術がある人でも、立ち止まって、ゆっくり弾くことは必要だと思う。

楽譜の表面的な読み方「目に見えること」だけでアンサンブルをしていても、本質には出会えない。音楽の世界は逃げて行ってしまう。
身体を通していつでも新鮮に音楽と向き合っていれば、作曲家の精神に出会うことができるはず。
その音楽の言葉を喋ることや、言葉の持つ意味や、自然な音楽の流れや、心地よいと感じるリズム感。そして、それぞれの音が身体の中から発せられ、お互いに音を重ねて共鳴すること。基本的なことを大事にしていれば、音楽の方から語りかけてくるものがある。
そのようにして奏でられた音楽が一人一人の心に届き、それぞれの内面が自由になり、本当に平和が訪れるようにと願う。
posted by makkida at 20:30| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2019年09月11日

弓と弦の仲

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バロックボウでは弓を弦に当たる接点の感覚を自然に感じられる。
毛が深く弦の中に入るときは、まるで水の中に浸すように。そして水から出していくように。
また、筆を使うときのように、弓の毛を少なくから始めたり、逆にだんだん少なくしたりするときは、筆の毛先を想像する。
絹の布や子猫の柔らかい毛を撫でるような感覚。
太い筆、刷毛を使う感覚。
様々な感覚を想像できる。

いい弓を使うと、その感覚がよりはっきりわかるのだと思う。自分で所有できればこんな幸せなことはないが、一度でも使ってみると身体が覚えてくれる。
posted by makkida at 13:53| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする

2019年09月06日

弓の持ち方を考える

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綺麗な湧き水はおいしいだけでなく、肌に優しく、驚くべき洗浄力もある。都会の水は薬品で消毒されているけれど、生命力があるのはどちらだろう。

チェロの弓を持つ時に、右手の親指の負担は誰にとっても問題になるだろうと思います。
ヴァイオリンの場合、弦の上に弓が乗る形になる一方で、チェロの場合は、弦に当てた弓は、右手で持っていないと落ちてしまう。
弦に引っかかってくれるのは弓の毛であり、弦の当たりや弓の毛の引っ掛かりを感じるには、うまく脱力できていないといけない。もし、手(指)の力で弓をつかんでしまうと、弦と弓の毛の当たりを繊細に感じ取ることが難しい。
弓を持つけれど、力では「持たない」。

まず椅子に座った時に、両方のお尻(座骨)がうまく乗って、腰や背中が反って緊張することもなく、ぐにゃっと折れ曲がることもなく、体幹の支えがあること。腰が前後左右、円を楽に描け、胸(肋骨)もみぞおちも首も楽に揺らすことができること。
両手は楽にぶら下がり、腕そのものの重さを感じる。両足を股関節を緊張することなく無理なく広げ、両足裏が地面についているのを感じる。つま先をついて踵を上げたり、踵をついてつま先を上げたり、つま先をついて膝を揺らしたり足首を回したり。
座り方を観察してから、チェロと弓を持つ。

弓を持つ手は、自分側に親指、駒がわに他の4本の指、ふわっと持つ(イメージ)。何か丸く太いものを持つように掌を丸く広げる。
細かい動きを指を使って行う時に、指だけ動くことを考えてしまう。もちろん、ロングトーンや力強いアタックは大きな部分、腕全体を使う。
80グラムぐらいある弓を扱うのは結構力仕事でもある。指だけで仕事をしていては、痛くなるのも当然。つい、指を強める訓練など考えるだろう。その訓練で指を痛める皮肉も・・・。
フェルデンクライス(ハーモニー体操と称して)の指導者からアドヴァイスを受けたこと。親指を動かす時に他の部分も連動するのを止めずによく観察してみる。手首、腕の回転、角度、自然についてくる動きがある。
そこで改めて思い出すのは、指先の細かい動きは腕の付け根(肩甲骨)から関わってくるということ。「いや、それだと細やかな動きにならない」と思うかもしれない。だが、弓先の返しを柔らかく行うときに、腕の付け根から動かす(意識する)と自然とスムーズに行く。あちこちの動きがうまく連動できるときは、身体に無駄な力が入っていない状態。反応も早いし、繊細に感じることも、腕の重さを生かすことも可能。指先だけ動かすと、かえって大きな動きになることにも気づく。

疲れてくると、まず体幹が崩れ、両手を支えられなくなるので、身体の部分がバラバラになって連動がうまくいかなくなり、結果、部分を痛めてしまう。
気持ちいい身体の状態を覚えておき、思い出すように脳を使えればいいのかもしれない。深い呼吸も大事だろう。

17、18、19世紀の絵画や写真でチェロ奏者の弓の持ち方を見ると、指の位置を固定して持っているようには見えない。18世紀半ばまでの絵で、チェロ奏者がアンダーグリップ(現在の多くのコントラバス奏者のように)で弓を持っている場合もある。
写真ではポーズを取っているときに脱力しているからかもしれないが。絵画の場合は、演奏している人を見て絵描きが描くから、より確かかもしれない。

18世紀前後に活躍したフランス出身のチェロ奏者デュポール兄弟、そのテクニックの影響を受け継いだ19世紀のベルギー出身でフランスで活躍したオーギュスト・フランショームは、右手のボーイング(bowing)のテクニックの種類が豊富で、ヴァイオリン奏者と同じように弾けたという。例えば、弓先でのデタッシェ(音と音を繋げずに弓を返して音を離す。弓を止める必要があるが、決して力を入れて止めない。力で止めると響きがなくなってしまう)はヴァイオリンの効果的で素敵なテクニックの一つだが、19世紀フランショームの周りのチェロ奏者の間では、太いガット弦(特に低い弦)で弓の毛が弦を噛むことは難しく音がかすれてしまうので、弓の真ん中か4分の3位の位置でデタッシェをするものとされていた。でも、フランショームは弓先で、デタッシェもスラーを含む様々なボーイングも得意であった。
そこで問題となるのは、どんな音で弾いていただろうか、ということ。
音は残っていないから想像するほかない。
20世紀はじめの弦楽器奏者たちの音源が手がかりになるかもしれない。
音源に残された「はっきり」「明瞭な」音を、現代のスチール弦と同じ音質で捉えていいものか。確かに素晴らしいテクニックが想像できるけれども、音量に関しては当てにならない。
16、17世紀のバロックから古典派を経て19世紀の演奏を考えたときに、一つ一つの音が響きを持って放たれるイメージが聴こえてくる。舞台で俳優が一言一言明瞭に発音するように。それは大声でなくても届くはずだ。

痛みがなくて身体が軽やかに動くときは色々考えなくても弾けてしまうものです。痛みが出たときや、身体が固まってきたとき、いい音が出せないときなど問題が生じるときに色々考えます。正解はなく、アイデアをできるようになるには時間がかかります。
これからも時間をかけて試行錯誤を楽しもうと思います。

演奏時の身体の使い方でお悩みの方、ご一緒に考えるレッスンをいたします。こちらまでご連絡ください。
MA企画 kikaku_ma☆yahoo.co.jp (お手数ですが☆を@にタイプし直してください)
またはFacebookメッセージまで(返信に時間がかかるかもしれません)。
posted by makkida at 00:02| 楽器演奏と身体 | 更新情報をチェックする
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